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タナ・トラジャ Tana Toraja

脇田 清之


 郊外の丘からランテパオの市街を望む


 切り立つ崖に掘られた墓場や葬儀も観光資源

インドネシア屈指の景勝地、トラジャの魅力

 
 トラジャ・コーヒーで有名なタナ・トラジャはトラジャ語で”山の人の国”を意味する。 トラジャ県は南緯2度から3度に広がり、北側はマムジュ県、東はルウ県、南はピンラン県、エンレカン県、西はポレワリ・ママサ県に接する。面積約3200平方キロメートル、約50%の土地は標高1000m以上、12%以上が標高2000m、と文字通りの山岳地帯である。(写真:トラジャ入口付近のGoogle衛星写真) 最高峰は3083m。人口は約45万人(2007年)。行政の中心地はマカレ(Makale)、 商業・観光の中心がランテパオ (Rantepao)である。ランテパオは標高 800mの高地で、Makassar (Ujung Pandang)から約 330 km、 現在は道路が整備されているので車で約8時間で行くことができる。ホテルもたくさんある。しかし、そこから奥地へ入る交通手段は限られ、殆ど徒歩となり、今なお文字通りの秘境である。後述のキーコーヒーの農園も先ず最初に道路の建設から始めたという。赤道に近く、高地のため直射日光は厳しいが日陰では涼しい。ひんやりした山の空気、昔の日本の山間の段々畑(水田)風景に似ていること、牛が道路を横切ったりとのんびりした風景が売り物の観光スポットです。フランス、ドイツなどヨーロッパから大勢の観光客が訪れます。

 桃山学院大学の名誉教授、沖浦和光先生(比較文明論)は「私が訪れたところで、人間の生活と竹が最も深く結びついていたのは、インドネシアのスラウェシ島の山深いトラジャ地方である。ここは赤道の真下に近いが、1,000 M 以上の高地である。だから気候風土は、ネパールの盆地と同じように日本の気候風土とよく似ている。傾斜地を利用した山間の棚田などを見ていると、日本の山深い盆地とそっくりだ。」と述べている。(岩波新書「竹の民族誌」沖浦 和光著)

 私は1997年11月28(金)~30日の3連休に車で行って来ましたが、ホテルはフランスの団体客で満員でした。Makassar (Ujung Pandang) から車で約8時間(休憩、昼食の時間を含めて)掛かりました。効率的な旅行を得意とする日本人にとって往復の2日間は大きな障害なのでしょう。日本人は足早に名所旧跡を廻りたがるのでトラジャは向かないのかも知れません。でも騙されたと思って一度お出かけ下さい。リラックス出来ます。

トラジャ族について

 トラジャ族は、もともとは古マレー系の海洋民であったが、後からスラウェシ島にやってきた新マレー系に追われて、川沿いにこの山深い奥地まで逃げ込んだ。そして長い間、他民族との交流を断ってきた。舟型の家は自分たちの祖先を忘れぬためである。竹を幾重にも重ねて丹念に作り上げた屋根は、まさに芸術品である。(岩波新書「竹の民族誌」沖浦 和光著 より)

 

 人類学者 Dr.C. Cyrut によると、トラジャ族はもともと南スラウェシに住む原住民と、中国大陸のトンキン湾からやってきた移住民との文化変容によるものであると言う。大量のインドシナ半島からの移民が最初に河の上流地点、現在のエンレカン、に漂着し、その後現在の場所に移ったと言う。トラジャの名前は最初、シデンデレンとルウのブギス族によって付けられた。シデンデレンの人々が、この地の人を“トリアジャ”(To Riaja) 、即ち、「山の国に住む人」と呼び、またルウの人々は“トリアジャン”(To Riajag) 、意味は「西に住む人」と呼んだと云う。また別の説では、Toraya は To =Tau(人)、Raya = besar (マレー語)、即ち偉大な人(民族)である。これがその後トラジャ (Toraja) 、Tana は国の意味である。 偉大な民族ではあるが、体格的には小柄な人が多い。

 インドシナ半島からの移民が最初に住み着いた場所がエンレカン(Enrekang) であったことは、現在の地図からでは考えにくい。しかし、かって南スラウェシ半島は、パレパレ、テンペ湖のあたりで南北に切れていて、船でボネ湾側からマカッサル海峡側に出ることが出来た時代があった。その時代、エンレカン(Enrekang)はもっと海に近かったのではないだろうか。

 この考えを裏付ける資料の一つとして興味ある資料がある。オランダ統治時代の1910年頃、トラジャ山塊からマカッサル海峡へ流れるサダン河の河口の水路測量の際、サダン河流域からの恐ろしく夥しい土砂の流出に注目が集まった。すなわち、測量作業10年間の間にサダン河は極めて広い海岸台地上の泥土洲を半キロメートルも西方に拡大しているのである。(エル・ファン・ヒューレン著 日本インドネシア協会訳「セレベス」 P278 発行所帝国産業出版社 昭和17年12月20日発行)

 さらに同書にはサダン河河口のビナンガ村長の証言から、ウジュン・サリポロの淵辺が僅か10年足らずのうちに1500メートル(4分の3海里)も移動したことを否定することはできない、と書かれている。(同上書281頁)サダン河からの土砂の流出により、長い年月の間に、この地域の地形を大きく変化させている可能性がある。

関連資料:

スラウェシ島の歴史と民族(2)トラジャ族

仕事を求めて各地へ移住・高い教育レベル

 広島大学の文化人類学者山下晋司氏によると、トラジャ県住民の約3分の1にあたる約10万人の人口がマカッサルをはじめとするスラウェシの各地、あるいはカリマンタン、ジャカルタ、さらにはイリアンにいたるインドネシア各地に出稼ぎ、進学のために出ていると推定されているという。マカッサルのトラジャ人の職業は男性は靴屋、女性はお手伝い(女中)が多い。マカッサルの華人は、商店や会社の従業員として、トラジャ人を好んで採用する傾向があるという。トラジャ人は、ブギス人やマカッサル人と違って、従順でまじめによく働くという。トタジャ人の方も、華人は食事(豚肉を食べる)、宗教(非イスラム教)、勤勉さにおいて、自分たちに似ているという。逆に、特にブギス人は、その「独立の精神」(semangat merdeka) からして人に使われることを好まず、汗水たらして働くことは、彼らにはむしろマイナス・イメージのようだ。

トラジャには古くからキリスト教の宣教師が入っているためか、住民は教育に熱心である。マカッサルにある国立ハサヌディン大学では、ある年に登録した学生の約30%がトラジャ出身であったという。これは住民比率からすれば大変高い数字である。(出典:山下晋司 「ウジュン・パンダンのトラジャ社会」:インドネシア地方都市研究 東南アジア研究 23巻4号 1986年3月)

トラジャ・コーヒー

この地方で生産されるトラジャ・コーヒー豆は第二次世界大戦前はオランダ王室ご用達であったほどの高級品である。しかし、戦後にインドネシアが独立し、オランダ人が追放されてから、トラジャのコーヒー産業は衰退し、長らく「幻のコーヒー」と言われていた。トラジャ・コーヒーを再興したのはキーコーヒーの大木氏で、農民たちに近代的な栽培技術や品質管理を教え、20年の歳月をかけてコーヒー農園事業を軌道にのせた。近年はインドネシアの企業もトラジャに進出するようになった。

(藤岡信勝 責任編集 「教科書が教えない東南アジア」扶桑社 1999-8-30発行)(1999年10月27日 内容更新)

日本のキーコーヒーの現地合弁企業、トアルコ・ジャヤ社 (PT. Toarco Jaya)社のパダマラン農園は標高900m~1,250m、総面積 530 ha、その内作付面積は300haの広大な農園に約38万本のコーヒーの木が植えられている。(上の写真) ここでは赤く完熟したチェリーを一粒一粒人力で収穫し、脱肉、水洗、乾燥、選別、カップテストなどの工程を経てマカッサル港からリーファー・コンテナー(コンテナ内部温度を一定に保持)で日本へ出荷される。良い完熟したチェリーを収穫してもその後の脱肉、水洗が不十分であると、その後の品質面で発酵臭などの影響を及ぼすことがあるという。この農園の場合、豊富な湧き水が出るので十分な洗浄が可能である。

同社のコーヒーの年間輸出量は年間515トン(2004年)。かってはトラジャ・コーヒーの先駆者としてトラジャ地方から出荷されるコーヒーの約8割がトアルコ・ジャヤ社のものであったが、トラジャ・コーヒーの知名度が上がるに従ってアメリカ、シンガポール、ヨーロッパ向けに新規参入業者の農民からの買付けが増えるに従ってシェアは低下していると言う。しかし自前の農園、加工工場をもっているのは同社だけのようで、トアルコ・ジャヤ社の高級品質、繊細な味覚を追求する姿勢が感じられる。(2005年12月追記)

初摘みコーヒー

その年の最初に摘んだコーヒーの実から作られたものを初摘みコーヒーと呼んでいます。初摘みコーヒーはフレッシュな香に富み、上品な酸味と豊かなコクをもったバランスのとれたコーヒーです。 トアルコ・ジャヤ社からは「トアルコ・トラジャ 初摘みコーヒー」として販売されます。購入は通信販売またはデパートの売り場での予約が必要とのことです。是非お試しください。因みにトラジャではコーヒーの木は9月~10月頃に開花し、 その8~9ヶ月後に収穫となります。(2006年1月追記)

バルップ珈琲園ー戦前日本人によるコーヒ農園開拓ー

 昭和13-14年頃のセレベス島の日系企業のリストの中に、バルップコーヒ園の名前が出てくる。(日本インドネシア協会 加藤 裕氏資料) 台湾総督官房調査室「南方各地邦人栽培企業要覧」昭和4年(1929年)調査によると、バルップ珈琲園(Baroeppoe Koffieonderneming) は、名義人岸将秀、共同出資三浦襄、主作物は珈琲、試作物は茶、規那(キナその他果樹となっており、状況として「本園は海抜2000米に達し、気候極めて温和にして、専ら温帯植物の養殖に適するを以って、現在、養豚、養魚、養鶏の副産業を行い」と記されている。(原誠「日本キリスト者三浦襄の南方関与」) 
農園のあった場所はランテパオから西北の山中にあるバルップ(Baruppu)ではないかと思われる。ランテパオから直線距離で約20キロ、標高2000メートルの山中である。現在でも簡単に行ける場所ではない。Periplus 社の Adventure Guide の中で、バルップの地名はガイドが必要なトレッキング・コース (3 days with guide) の中にあった。

(c)batusura.de, used with permission
険しい Baruppu の山岳風景

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 険しい Baruppu の山岳風景、1906年にオランダが包囲攻撃した際に描かれたBuntu Baruppu 要塞のスケッチ。オランダはこの要塞の攻略に4ヶ月を要した。

トラジャへの道

 
 マカッサルを朝7時に出発、10時頃パレパレで休憩、軽い食事をとって出発、山を越え緑豊かな水田地帯を抜け午後1時頃にはエンレカン着、ここから秘境トラジャの山塊が真近に迫り山道をじりじりと登って行く。山の中腹には展望台がありコーヒーや軽い食事で小休止。展望台から見る山並みは現地の観光案内ではエロチック・マウンテンと紹介されている。(写真上) 涼しい風がテラスを吹き抜ける。
ここまで来ればトラジャはあと一息。ゆっくり景色を眺めながら午後3時にはマカレ到着。約8時間の快適なドライブです。山の麓ではカカオ、山の中腹ではロブスター種のコーヒーが栽培されている。高級なアラビカ種のコーヒーは1000mを越え険しい山岳地帯でのみ栽培が可能とのことです。

 マカッサルーランテパオ間の道路はオランダ統治時代の1927年(昭和2年)に完成している。しかし道路が舗装されて乗用車でも行ける様になったのは、1990年代の後半になってからのこと。道中、何箇所かに美しいカユアサムの大木の並木が残されている。

(2002年1月15日 内容更新)
(2005年12月14日 内容更新)
(2006年1月20日 内容更新)
(2007年7月20日 内容更新)
(2008年1月28日 追記)
(2008年2月12日 追記・再編集)
(2008年9月9日 バルップ珈琲園 一部追記)

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