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開戦時の北スラウェシ在留邦人

Nasib orang Jepang di Sulawesi utara pada awal Perang Pasifik

加藤 裕、長崎 節夫、脇田 清之

太平洋戦争は1941年(昭和16年)12月8日に始まった。スラウェシ島北端のマナドに日本海軍の落下傘部隊が降下したのは1942年(昭和17年)1月11日である。そのあと日本海軍は東南スラウェシのケンダリの飛行場を確保したあと、2月9日マカッサルに上陸している。日本陸軍のジャワ島上陸は3月1日であった。現地住民にとって、日本軍はどこから いつ どのように攻めてくるのか一番の関心事(心配事)であったと思われる。太平洋戦争中、軍医として北スラウェシに駐在した福岡良男先生の著書「軍医のみた大東亜戦争」によると、"Djangan takoet ! Akoe panggil Militer"(恐れるな!我々が軍隊を呼んでくる)と書かれたオランダ軍のビラが、北スラウェシの住民にも配布されていたという。(下図)

北スラウェシのゴロンタローでは、日本軍が到着する前にオランダ人官僚を投獄し、1942年1月23日、インドネシアの独立を宣言している。しかし日本軍が現地に到着すると、期待に反し、インドネシア国旗の掲揚は禁止され、首謀者 Nani Wartabone (のちに 2003年 インドネシア国家の英雄の称号を授与された)は日本軍によって投獄されるという悲劇も起こった(注:あとがきに補足説明あり)。北スラウェシの現地漁民は日本軍との戦闘に巻き込まれることを恐れ、豪州に避難し、後日彼らの帰国のためラトランギが尽力したという。

昭和16年12月8日、太平洋戦争が勃発したとき、ビトンを含むマナド地域の邦人には どんな運命が待っていたのだろうか。ビツン在住の大岩富氏によると、大岩氏自身は太平洋戦争開始直前に日本へ帰っていた。終戦後に周囲から聞いた話から、開戦前後のメナド在留の日本人には3つの流れがあったという。

大岩家の場合、大岩富氏の父、大岩 勇(明治35年生まれ)の弟 中川 大八郎は、(勇の実家は中川姓。勇は養子に出されて大岩姓になった)開戦前から勇の事業を手伝ってメナドにいたが、開戦と同時にパラオに避難し、海軍のメナド攻略後に戻った。勇も同時期にもどった。勇の(日本の)奥さんの甥にあたる夏目というのが現地にいたが、オランダ官憲に逮捕されてオーストラリアに抑留された。ビトゥンの鰹節工場は開戦直後、オランダの指図で焼き討ちされた。日本軍の攻略後メナドにもどった勇はじめ関係者は工場再建からはじめたという。

開戦直後に逮捕されオーストラリアの収容所に抑留された人たちのこと

開戦時にマナド方面に在住していた邦人は、翌年、昭和17年1月15日に チラチャップ港で他の蘭印在住邦人と合流し豪州へ移送されている。チラチャップ合流前のマナド在留邦人の体験については、戦前にスラバヤ横浜銀行支店長を勤められた古池三八勝氏の私家本「抑留日記」のなかに、ジャワ島のある邦人収容キャンプ(場所は特定できない)でマナドから移送されてきた邦人120名と遭遇、その際に古池氏が聞き取ったマナド邦人の様子が記されている。1942年1月11日、ダバオから発進した堀内中佐(当時)の落下傘部隊が北スラウェシのランゴアン空港に降下、翌日の1月12日、海軍マナドを占領している。そのまえ 12月26日には日本軍がマナドの爆撃を開始していたとのことで、日本海軍のマナド攻撃作戦と蘭印側の在留邦人の移送作戦がきわどいタイミングで行われていたことが窺われる。以下に「抑留日記」の中からマナド関係者の消息について抜粋記載する。

抑留日記

1月7日  午后4時頃メナードより廻送されて来た邦人百十二名到着、一行は十二月三十日にセレベス島の東海岸の某港より乗船、船底に閉じ込められ水浴は勿論、用便にも苦労を重ね虐待に耐え、漸く今朝スラパヤに上陸、吾々と同じコースで運ばれて来た由、老人や婦女子を含む一行、幸い一人の落伍者も出なかったが流石に顔色が冴えず疲労はその極に達して居た。吾班では早速残飯を集めて握飯を作って贈った。一行は「暖い同胞愛の発露」と感泣された。  早朝、メナード組のハットを訪れ、代表者より検束以来の行動に付き話を聴いた。 概略次の如し、

十二月八日より二週間監獄内で毛布も与えられず床上に起居、食事は朝、夕はパン、 昼は米飯、幸い現地人の衛兵に頼んで食料品を購入することが出来、どうにか過した。 二十六日吾軍の飛行機が爆撃を開始、見事な急降下爆撃振りを目のあたり見て、大いに意を強くした。

夫れで蘭印政府は危険を感じ、我々を約220粁離れた山中に移し、三日後に又他へ移した。次いでオンボロのパスに詰め込まれ、途中故障で立往生を繰返し、修理を重ねて翌朝二時頃某地へ到着、仮睡の暇もなく五時頃再びバスで東海岸へ廻送、乗船させられた。

斯くて狭い船槍で生きた心地もなく、苦悩の生活が初まった。即ち入口が閉鎖されて居る為め、内部は蒸暑い。夫れに便所の設備がないのでバケツを利用して用を達し、時折甲板に釣上げて処分する有様、それに船の動揺で作業が難渋を極めた。 漸く一月二日にマカッサルに入港したが上陸も叶はず、スラパヤへ連行された。

一月七日早朝スラパヤへ上陸、ヤレヤレと思ったも束の間、直ちに汽車に乗込まされた。幸い車中では自由に食糧品の購入が出来得て助かったとのことでした。

尚スラバヤやスマランは共に平静を保って居たとの事で、之迄に吾々がキャッチしたニュースは殆どデマであったことが判明した。

朝食後吾々に移動命令が出され、携行品を取纏め待機した。勿論行先不明、そして 昼食後、吾々の為め用意されたパン、コーヒーを入れた石油缶がトラックへ積込まれたが一向に出発する気配がなかった。午后2時頃メナード組代表者がお別れの挨拶に来られた。そして吾々一行を見送り度いと申入れがあったが出発時刻が不明の為め辞退した。

夫れで残留組、出発組が夫々ハットの前に整列・挨拶を交はした。送る者も送られる者も皆、涙、別れを惜む感激の数分間、お互に明日を知れぬ運命、名残りは尽きず、誰一人立去ろうとはしなかった。メナード組にすれぼやっと吾々と合流しながら一日足らずで又引離される。母国を遠く離れた異国の土地で不幸囚はれの身となった境遇を慰め合う心情、斯くては果てじと当方より引取ってハットに入ったので先方も漸く引揚げられた。鳴呼! 麗しき同胞愛、吾々は地獄で佛に出遇った想いで男泣きに泣いた。

折しも一天俄かにかき曇り、大粒の雨が降り出した。天も吾等に組して涙雨を降すのか。雨は次第に激しさを加え、高原の気温が急に低下、午后三時頃メナード組より昨日の返礼として心蓋しの握飯が届けられ一同感激した。

午后四時頃豪雨も稍小降りとなり愈出発命令が出た。 以上

チラチャップ到着後の動向

チラチャップ港には蘭印各地から移送されてきた邦人2000名が集められ、クレメール(Cremer)号に詰め込まれ、豪州アデレード港経由して豪州各地の収容所に送られた。「開戦時のマカッサル残留邦人」の後段「チラチャップからアデレードへ」以降に 概略記載があるのでご参照ください。

あとがき - インドネシアの英雄 Nani Wartabone について-

書き終えてゴロンタローの独立運動家Nani Wartabone の名前が気になった。もしかすると この方は南スラウェシ出身の家系ではないだろうか。1600年代、香辛料貿易の独占のためにやってきたオランダ東インド会社(VOC) とマカッサル王国との間で、数十年にわたり、長く激しい戦争があった。1634年、ゴワ王国は、ゴロンタロー、トミニなど北スラウェシへの派兵、同時に、オランダに抵抗する住民を支援するため艦隊をマルクへ派遣している。その後1638年 マカッサル王国はゴロンタローを支配下に収めている。あらためてゴロンタローの地図を見ると、故郷の名前を冠した ボネ河(Sungai Bone)も流れている。マカッサル戦争(1666-1667,1668-1669)はオランダ側の策略で敗れたが、インドネシアの 独立運動(抗オランダ運動) は1600年代から連綿として続いていたこと あらためて実感する。

インドネシア国家の英雄 Nani Wartabone について補足する。

1942年1月23日、Nani Wartabone は (ゴロンタロー地域での)インドネシアの独立を宣言したが、1月26日、ゴロンタロー港に日本海軍の艦船がやってくる。圧倒的な軍事力の差のため日本軍と戦うころは出来なかった。1942年6月6日、ゴロンタローは日本軍に降伏した。 その後 1943年12月30日 Nani Wartabone は逮捕され、マナドの監獄へ送られる。マナドの浜辺に頭だけ出して砂に埋められる拷問もあったという。 Nani Wartabone が釈放されたのは 日本が敗戦色濃い1945年6月6日だった。日本敗戦の翌日、1945年8月16日にゴロンタローの政権は日本海軍から Nani Wartabone に移された。ゴロンタローの人達が ジャカルタでインドネシア国家の独立宣言が行われたことを知ったのは8月28日であった。

Nani Wartabone の苦難はこれで終わらなかった。彼は 今度は帰ってきた オランダ軍によって逮捕される。

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