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長崎 節夫 Nagasaki Setsuo
May 30, 2023
2003年7月19日晩、ビトゥン市内のホテルで渡邊奉勝在マカッサル総領事と北スラウェシ日本人会会員数人が懇談会をもった。
総領事は、翌朝ビトゥン港に到着する予定の海上自衛隊練習艦隊の出迎えと、ひきつづき行われる「元山記念霊園」での慰霊祭に参列のためビトゥンに出張してきたところであった。海上自衛隊練習艦隊はこれまでジャカルタ、スラバヤなどインドネシアの主要都市へ何回か寄港実績はあるらしいが、北スラウェシ州への寄港はこれが初めてのことであった。海上自衛隊練習艦隊がビトゥンに寄るということはそれなりの理由・目的をもっていることではあるが、この時のビトゥン寄港の大きな目的はビトゥン市マネンボネンボ区にある元山記念霊園の慰・参拝であったことを後で知った。
Bitung にある元山記念霊園を訪れた海上自衛隊練習艦隊による慰霊祭(2014年)
元山記念霊園は、広島県呉市在住の大之木英雄氏など、昔、北朝鮮の元山にあった海軍航空隊に配属されていた海軍第14期飛行専修予備学生が中心になってマネンボネンボに建立した戦没者慰霊の霊園である。
旧帝国海軍と現在の海上自衛隊は、厳密にいえば全く関係のない別組織であるが、内面というか心情的な部分では帝国海軍から現在の海上自衛隊まで濃ゆい血縁関係でつながっているように見える。海上自衛隊の練習艦隊が航海経路としてインドネシアのスラバヤやジャカルタに寄港することはすでに恒例となっていたが、恒例の航海経路を少し変えてビトゥンにも寄港し、マネンボネンボの慰霊碑に参拝しよう、と言うことになったのではなかろうか。2003年度の練習航海でビトゥン寄港と慰霊祭施行が叶い、それ以来、大体5年に一度くらいのペースで練習艦隊がビトゥンに寄港するようになった。今年(令和5年)2月にも練習艦隊がビトゥンに寄港して、元山記念霊園および北スラウェシ日本人墓地に参拝献花をいただいた。
私見であるが、練習艦隊のビトゥン寄港については、メナドを含むビトゥン港一帯がその地理的条件から昔も今も東部インドネシア方面の要衝であることから、たとえ慰霊碑参拝という案件がなかったとしても、ビトゥン寄港そのこと自体が練習艦隊の航海目的にマッチしており、適切な航路選択であると思う。元山記念霊園や北スラウェシ日本人墓地への参拝は“ついで”でもよい。
2003年の練習艦隊ビトゥン初寄港当時、私は元山記念霊園がどこにあるのかも知らなかった。後に、北スラウェシ日本人墓地が建立されてから旧海軍出身の皆さん(元山海軍航空隊関係の皆さん)との接触がはじまって、ときどき行われる慰霊祭にも招かれるようになり、ビトゥン市マネンボネンボ地区にある「海軍さんの慰霊碑」の様子が少しずつ分かってきた。わかっただけではなく、ついには現地日本人会としての立場上その霊園の維持・管理にも関わることになって現在に至っている。
管理を受け持つ立場として、この「元山記念霊園」についても一筆書き残したいところであるが、本稿ではこの程度で止めておきたい。
さて、ビトゥンのホテルでの渡邊総領事との懇談は、いきなり本題にとりかかった。議題はそれしかないのだ。
ビトゥン市とメナド市で見つかった「放置された日本人墓」についてはすでに北スラウェシ日本人会会報「タルシウス」にも掲載され、沖縄の地方紙「琉球新報」でも報道されていた。当地を管轄する在マカッサル総領事館としても当然ながらこの情報を把握しており、この件について今後の対応を考えようというのがこの日の懇談会の意図であった。
日本人会側から一通りの状況説明のあと、総領事から「新しい墓地を造ってはどうか」と提案された。日本人会の面々も新墓地の建設が最善手ではないかと考えていたことであったので、鶴の一声というか総領事の一言で一気に新墓地の建設が方向づけられた。全員異議なし。今後は現地日本人会の面々が役割を分担して事にあたり、必要なら総領事館の助力をお願いする、というかなり大雑把な基本方針ができあがった。
沖縄の泡盛仲間たちは、さっそく「北スラウェシ日本人墓地整備会」なるものを立ち上げて沖縄県内のご遺族の調査・連絡や募金活動に尽力してくれた。その活動の一環として地元の新聞「沖縄タイムス」にも大きく報道してもらったり、墓地整備会を起点として高校の同期会や郷友会などにも支援の輪がひろがった。
新墓地の用地は大岩さんの力で適地が見つかった。取得した土地(原野)に重機を入れて墓地を造成し、敷地内正面に慰霊碑、右半分に各人別の墓碑を配し、2004年6月初旬、ビトゥン市の郊外に立派な「北スラウェシ日本人墓地」ができあがった。
在マカッサル総領事館・渡辺奉勝総領事、ビトゥン市長(副市長代理出席)、北スラウェシ日本人会会員一同、地元住民十数人が参列した。募金活動に尽力した沖縄の墓地整備会会長・糸満盛健からお祝いのメッセージが届き、この日の司会役を務めたリンダさん(石野さんの秘書)が日本語とインドネシア語で代読した。
諸般の事情で落成式が先になってしまったが、最後の仕上げはメナド市内ワオノサ墓地(通称・オランダ墓地)にある墓碑と遺骨(遺灰)の引っ越しで、7月29日にこれも無事完了。とりあえず、両墓地に眠る同胞の新墓地への移葬が完了した。渡邊総領事との懇談会からおよそ1年が経過していた。
私は1996年頃から本業のまぐろ漁業でスラウェシ島の北東端に位置するビトゥンの漁港に出入りしていた。漁港では漁獲したマグロを水揚げして次の航海に必要な食料・燃料・餌などを補給する。大体2週間に一度(1か月に2回)くらいのペースで出入りしていた。当時、ビトゥンの漁港に出入りする日本漁船のために食料や雑貨の補給を受け持っていたのがビトゥン在住の日系二世ナカ・リョウジ(名嘉良二)さんであった。
良二さんは沖縄出身の父親とミナハサ族の母親の間に生まれたいわゆる日系二世であった。一応通じる程度の日本語が話せる。彼は私が沖縄から来たということを他のまぐろ漁船の日本人船頭あたりから聞いていたらしく、初対面で「私も沖縄人です」とあいさつしてきた。スラウェシ島の片すみに沖縄県人の子孫がいることに少し驚いたが、同郷人で年齢も同じということですぐに気安い仲になり、少々こみ入った話もできるようになった。
「なぜ、あなたみたいな日系人がここ(ビトゥン)にいるのか?」という話から始まり、家族構成、父親は終戦後沖縄に帰って再婚したこと、沖縄には腹違いの弟たちもおり親戚もいっぱいいること、自分のような立場の者(ビトゥンに置きざりにされた日系人)が何十名もいることなど、興味深い話をいっぱい聞きだすことができた。
良二さんが「おとうさんの仲間のお墓もある」と言うのでその墓地へ案内をお願いした。 次の日の午後4時ごろ、仕事が一段落してから彼の自宅につれていかれた。「墓はすぐそこにあるから」と言いながら良二さんは物置からスコップと鉄棒を取り出し、ゴム長を履く。ついでに、隣家に声をかけて若い男性を一人呼び出した。手伝えということらしい。
こちらとしては日本人の墓とやらをひと目見たいだけなのに、まるで墓荒らしにでも行くようなものものしい準備である。
彼の家の前の路地のような狭い道を横切って、その向こう側ににあるトタン屋根の民家の間を二軒か三軒ほどくぐりぬけると視界が開け、そこが共同墓地であった。広い墓地に大小様々な形の墓が向きもバラバラに建っている。墓地の向こう側(北方)は大通りらしく、行き来する車の屋根が見える。墓地の左手(西方)は墓がまばらになっていてゴミ捨て場のような雰囲気もある。民家と墓地の境界には塀や金網などそれらしい仕切りもない。先ほど私たちも民家の軒下を歩いていきなり墓地に入りこんだのだ。生きている人間の世界と向こう側の世界が一緒になって境界線もないらしい。
墓地の西側、墓石がまばらに見える一角に、てっぺんだけ地上に出ている墓石が2,3個見えた。一緒に来た若者が金棒とスコップを使って墓石の周囲を掘り下げた。地面は砂と一般家庭から出たゴミ・・洗剤のボトルや菓子袋など・・で固く締まっているので金棒で崩しスコップで掬い上げた。氏名や没年月日など読み取れるところまで掘り下げたらノートに記し、写真を撮った。なかには墓石全体が完全に地中に埋まっているのもあった。良二さんが「たしかこのあたりにもあったはずだ」と、指さした場所を一尺くらい掘り下げるとコンクリート製の墓石がアタマを出した。その並びには3基ほど、頂部まで完全に埋まっている墓があった。もしかしたら、他にも私たちに見つからなかったお墓があったのではないかと、今でも気にかかっている。
この作業は翌日も引き続き行った。
「メナド市内の墓地にも日本人の墓がいくつかかある」と言うので、日を改めてその墓地も案内してもらった。墓地はメナド市ワオノサ区の大通り脇にあって、この墓地は周囲を低い塀で囲まれている。ビトゥンの墓地より面積は狭いが、墓石は整然と並んでおり、墓地らしいたたずまいをしていた。ビトゥンの墓地のような〝ごみ捨て場兼用“にはなっていない。墓地の南東側一角は灌木が茂って小山のように盛り上がっている。その灌木の下に墓石があるらしい。良二さんは近所の民家に声をかけて4,5人の若い男衆を集めた。男たちは手に手に刃渡り50センチ前後の蛮刀を持ってやってきた。
蛮刀をふるって灌木を切り払うと十数基の墓が現れた。年月が経ちすぎて墓石の表面が風化・崩落し、氏名その他読み取れない墓があった。また、そっくり同じモデルで同時期に造られたと思しき6基の墓がほぼ完全な形で一区域にかたまって立っていた。被葬者6名とも「海軍軍属」の肩書があることから、この墓の建立には日本政府がかかわっているのではないかと思ったが、まだわからない。
とりあえずこれで北スラウェシ州メナド市とビトゥン市に「放置された日本人の墓」があることを確認できた。。 ビトゥン、メナド合わせて少なくても30柱以上の日本人の墓があることがわかったので、郷里の親しくしている先輩に手紙を書き、写真を添えて送った。一カ月ほど後に、沖縄の地方紙「琉球新報」が大きく報道してくれた旨、記事のコピーが先輩から届いた。 ビトゥン現地では大岩・石野さん両長老に放置墓の状況を報告して、これで私の役目はほぼ終わった。あとは前項で述べたとおりマカッサルの総領事館もからんで日本人墓地の建立に向かって歯車が回りだした。
ビトゥン漁港の岸壁で良二さんから日本人墓の存在を聞いた時は少し驚いたと前に書いた。かつては日本の委任統治領であったパラオやポナペなどミクロネシアの島々で同じ言葉を聞いたとしても何の疑問もおきないと思うが、ここ(スラウェシ島)はオランダの植民地であったのではないか。
このような単純な疑問も、その後、新墓地造成や維持管理に関わる中で目の前に生き証人が現れてきたり、文書資料がみつかったりして次第に解れていった。現実に目の前で「墓」のことを話している良二さんがいるではないか。はじめのうちは、彼の父親の漁師仲間が何人かこの地で没したのだろう程度に考えていた。何人分のお墓があるのか良二さんの話は要領を得なかったが、たとえ一基だけであっても無視するわけにはいかない。 それで、メモ帳とカメラを持って墓の「検分」にでかけたことは前述のとおりである。その場で被葬者名、没年月日、享年など、確認できることは記録したが、予想以上に員数が多かった、また、被葬者は漁師だけでなく幼児が何人もいる。単なる漁師の出稼ぎではなくこの土地に根を張った日本人社会ができあがっていた気配がある。 幼児の墓が多いことについては医療事情が悪かったこともあろうが、のちに大岩富さん(現地名:トミ・セムベン)から「ビトゥンはマラリアの猖獗地であった」と聞いて納得した。「マラリアの猖獗地」というのは過去のことではなく現在もそのとおりであるらしい。医療事情は現在でも貧弱であるが、戦前戦中は本当にお粗末なものであったにちがいない。マラリアは現在も風土病として勢力を維持している。
新墓地の完成時点までに見つかった墓のうち、最も古いと思われるのはワオノサ墓地の大正10年3月没、笠000さんであった。墓碑は風化によって表面が剥がれ、姓の「笠」の一字だけが残っていた。氏名不詳のままビトゥンの新墓地に移葬されたのであるが、その数年あとに全く偶然のできごとから遺族がみつかった。 メナド市の西方にアムランという町があるが、そこにオンダンさんという日系のおばあさんで住んでいることを茨城県在住の坂本氏におしえてもらった。「一緒に行ってみますか」と坂本さんに誘われて、翌日、アムランにオンダンさんを訪ねた。アムランはビトゥン市からメナドを経由してたっぷり3時間の行程である。 この日オンダンさんから伺った笠間氏の子孫の物語はかなり刺激的、涙と感動の物語であった。あらすじだけ以下に記述する。
オンダンさんは終戦の翌年昭和21年(1944)にメナドで生まれた。父親の名前は坂上二郎さん。戦争中までビトゥンにあった東印度水産(旧・大岩漁業)の職員であった。おかあさんの名前はクララ。クララさんの父親はは大正10年にサンギル島タウナで亡くなった笠間哲治さん(これで笠000の謎が解けた!)。メナドで材木商をいとなんでいた。笠間さんは集金でサンギル島タウナに出張した際、(たぶん取引相手に)毒を盛られてそこで亡くなった。 娘のクララさんは成人して、ビトゥンの東印度水産に勤務していた坂上二郎さんと結婚した。これは昭和19年ころと思われる。昭和20年8月敗戦。翌21年1月オンダンさんが生まれた。 資料によると、昭和20年8月の敗戦から翌年5月の引揚げ(帰国)まで、北セレベス方面の日本人は軍人・一般人を問わず全員がビトゥンの収容施設(註1)に抑留されている。クララさんは昭和21年1月にオンダンさんを出産した。そのころ坂上さんはビトゥンで収容されていたはずである。クララさんはおそらくアムランの実家で出産した。昭和21年5月、抑留されていた日本人は引揚げ船で一斉に帰国することになった。現地で妻帯した者も希望すれば現地人の奥さん子供を同伴帰国できるというので、坂上家は親子三人そろって帰国する予定でいた。 ところがいざ出発という日になって、連絡の手違いか何かで母娘ふたりは引揚げ船に乗ことができなかった。出発当日、坂上さんは乗船時間前に大慌てでクララさんを捜したそうであるが見つけることができず、やむをえず妻子を残したまま日本向け出発した。 この日、「教会のお祈り」から家にもどったクララさんは置いて行かれたことを知って三日三晩泣きとおしたという。現在みたいに電話が普及しているわけでもない時代に、坂上さんはビトゥンで収容され、クララさんはメナド(またはアムラン)の実家で乳のみ児を抱えていた。おそらくお互いの連絡に不手際があったのであろう。この日からクララさんの苦難の人生がはじまった。クララさんは再婚もせずに一人娘の成長を生きがいにして働いた。娘は母親の期待通り健やかに育ち、結婚して3人の女子をもうけた。
帰国した坂上さんはながいあいだ音信不通であったが、(アムランに縁のある)田村医師の尽力でやっと見つかった。ようやく連絡がとれたとき、クララさんは病床に伏すような体になって先は見えていた。 坂上さんはクララさんが元気なうちに2度もアムランまで来た。クララさんや娘のオンダンさんそして三人のお孫さんたちと幸せなひと時を過ごすことができた。 私たちは、坂上さんがアムランに来られたときの写真をいっぱい見せてもらった。病床のクララさんが起き上がって坂上さんと二人、実に幸せそうな笑顔で撮れている写真があった。オンダンさん自身も現在の境遇を「子や孫にかこまれて毎日が幸せ」と表現した。 おわり良ければすべてよし。 笠間さんの事例だけでなく、ビトゥンの日本人墓地の墓碑はすべて、それぞれの物語りを持っている。うれしいことも悲しいこともいっぱい詰まった物語を。(完)
敗戦によって北セレベス方面の在留日本人は軍人民間人を問わず全員がビトゥンの収容施設に抑留されることになった。抑留当事者たちが書き遺した手記などによると、抑留といっても収容施設が準備されていたわけではなく、一定の区域に被抑留者(日本人)側がそれぞれのグループごとに民家(住民は退出)に入ったり、小屋を建てたりして居住していた。アンボン人の哨兵を立てているが、塀もフェンスもないので出入り自由とまではいかなくても厳しく制限されたものでもなかったらしい。親しくしていた現地住民が野菜やバナナなどを差し入れに来たり、その家に居ないはずの赤ちゃんの泣き声が聞こえて慌てたこともあったらしい。
ビトゥンの日本人会の活動も知られて来たのでしょうか、日本からの訪問者も増えてきました。
学習院大学・佐藤陽治教授、同・横山悦郎教授、ほかゼミ所属学生一行による日本人墓地参拝・清掃(2014年11月、2016年8月、写真は2度目の参拝時)
氏名 | 没年月日 | 備考 | 原墓地 | W | ワオノサ、B |
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大槻現成櫻子 | 大正8年4月(1919) | 幼児? | W | ||
加来 俊太郎 | 昭和6年10月28日(1931) | 46歳 | W | ||
加来 秀子 | 昭和3年8月4日(1928) | 46歳 | W | ||
翁長 武治 | 昭和20年1月3日(1945) | 海軍軍属(漁船) | W | ||
中村 靖子 | 昭和20年8月2日(1945) | W | |||
古波蔵 鑑徳 | 昭和20年5月29日(1945) | 海軍軍属(漁船) | W | ||
山城 正雄 | 昭和20年5月29日(1945) | 海軍軍属(漁船) | W | ||
仲村梁 蒲 | 昭和20年2月20日(1945) | 海軍軍属(漁船) | W | ||
渡久地 平則 | 昭和20年5月29日(1945) | 海軍軍属(漁船) | W | ||
増田 誠吉 | 昭和20年5月29日(1945) | 海軍軍属(漁船) | W | ||
奥田 甚三郎 | 大正11年4月12日(1922) | 享年8か月 | W | ||
岩手 常? | 昭和20年3月9日(1956) | 海軍軍属(漁船) | W | ||
新垣 健一 | 不明 | 享年9歳 | B | ||
氏名不詳 | W | ||||
並里 三雄 | 昭和12年3月(1937) | 享年2歳 | B | ||
池原 盛益 | 昭和14年12月8日 | 享年30歳・漁船 | B | ||
田畑 並正 | 昭和14年8月28日 | 享年1歳 | B | ||
伊礼 良貞 | 昭和14年 | 漁船 | B | ||
Y IDEMORI | 昭和14年 | 享年1歳 | B | ||
伊礼 徳一 | 不明 | 漁船員 | B | ||
仲宗根 勇 | 昭和15年(1940) | 享年1歳 | B | ||
祖慶 朝順 | 昭和12年8月3日(1937) | 享年2歳 | B | ||
池田 増蔵 | 昭和14年12月(1939) | 漁船員・享年26歳 | B | ||
笠間 哲治 | 大正10年3月(1921) | 材木商 | M | 娘・孫アムラン在住 | |
釋法子宏了 | 不明 | 幼児? | B | ||
山城 幸雄 | 不明 | 幼児? | B | ||
知念 仙時 | 昭和20年1月3日 | 海軍軍属・漁船員 | B | ||
与那嶺三郎 | 昭和12年2月12日 | 漁船員 | B | ||
高良 三郎 | 昭和17年7月28日 | 享年44歳・漁船員 | B | ||
古波蔵清吉 | 漁船員 | B |
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