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セレベス民政部時代の思い出(2)

Ingatan masa pemerintahan sipil di Makassar
(Kaigun Minseibu, Angkatan Laut Jepang)

粟竹 章二 Awatake Shoji

マカッサルのレジャーと訓練



昭和19年6,7月頃のマカッサルはそれは天国でした。空襲もなく毎日夕方になると課長以下皆で自転車に乗って、世界3大サンセットの美しいロサリ海岸に落日を見に行きました。太陽が落ちると夕闇の中に所どころに有るラジオ塔から甘いクロンチョンのメロデイが流れ、涼しいそよ風に吹かれながら家路に帰るのは戦争を忘れるような素敵な気分でした。 また休みの日は皆でロッテルダムの前のプールに行き良く泳ぎました、帰りに喫茶店の二幸や清月堂に寄りまして甘い物を食べるのがとても楽しみでした。また三笠会館では映画や催し物が良くあり、内地からの芸能慰問団の公演や音楽の夕べなど楽しみにして居りました。

 藤山一郎さんにインドネシアの歌謡指導を受け、国歌の「インドネシア、ラヤ」や「ブンガワンソロ」などを教えて戴き ましたのも三笠会館でした。南星座にも良く映画を見に行きましたが、現地の人と一緒なので良く南京虫に食われ席には座らない様に立って見ておりました。
 休日には色々なスポーツの大会もあり、バトミントンやテニス、卓球などの大会もやりまして湯浅さんの指示で酒保より賞品など提供して会を盛り上げました。卓球では藤野さんはとても強く男子選手をバタバタと負かし、賞品のビールなどを取ってきて応援の我々に飲ませて呉れました。 自転車の遠乗りも楽しい想い出で、皆でスングミナサやマロスの方まで行きまして帰りに中華料理を食べるのが最大の楽しみでした。

然しこの様な優雅な生活も20年に入ると空襲も始まり、そんな暢気なことはしていられなくなり、休みには軍刀術などの実戦的な訓練が始まりました。或時斎藤甲板士官が我々若い理事生達のストレスを発散させる為に、収穫済みのバナナ畑を買いきりまして思う存分軍刀で切りまわしました。太い幹を袈裟切りにバサリと切るのはとても良い気分で、調子に乗ってバッサバッサと切りまくり、人間もこの様に切れるのかと良い気分に成りましたが、帰宅後刀の手入れを怠るとバナナのアクで刀身がベトベトに錆付いて、刀が抜けなくなり大騒ぎになりました。私はいち早く刀身を石鹸で洗い打ち粉を打ったので事無きを得ましたが、其のままにしてた者は後で大騒ぎに成りました。軍刀術では剣道有段者の斎藤大尉に仕込まれましたが、なかなか大変な修行で、あの重たい刀で素振りを行う時、振り落とした刀を止めるのが至難の技で、10回もやれば腕は痛くなり息も切れるし、一度振り落とした重みを止められずそのまま穿いていた半長靴の先に、切っ先が刺さりもう少しで足の指を切ってしまう所でした。 昔の戦国時代の武将があの刀を振り回したのは余程の力持ちだったのでしょうが、今でもテレビの時代物を見ると刀を振り回しバッタバッタと人を切る場面など、空空しく白けた気分で見て居ります。

20年3月頃セレベス新聞(毎日系)でネシア青年の為に、滑空機を内地より取り寄せてあったのを、マルチャヤ広場で師範学校の生徒に教えて居りました。当初航空隊の若い士官を教官としてやって居りましたが、前線出動の為に教官を探して居りまして山田教員が滑空士免状を持っていたので誰か助手をと探しておりました時、課長がそれを聞きまして「うちの粟竹が資格を持て居る」と云われ私に金、土の午後に行く様にとの指示が有りました。
 山田教員と会うと「教えたくも教典も何も無い」と云うので私が何かの役に立つかと「中等学校滑空士訓練要綱」と云う教典を持っていたのでとても喜び「これで訓練が出来ます」 と言われたので、私はそれからヨピーの協力を求め、残業をして教典をインドネシア語に翻訳を致しました。
 丁度も滑空機も文部省型1号と云うプライマリー(初級機)の新しい型の機だったので、教典がそのまま使え簡単でした。ヨピーは物凄い才能を発揮して私が読むのをタイプで翻訳しながら打ち、3日程で大体の教典が出来あがり、早速ガリ版で刷りまして皆に配りました。
 号令は全部日本語で元より秀才ばかり集まって居る生徒達ですから、たちまち上達してその進歩は素晴らしいものでした。生徒達は私と年は変わらないのに私の事「教官、教官」と呼び「ハイ、ハイ」ととても教えを良く守りました。空襲も激しくなり訓練も段段出来なくなって行きまして、遂に師範学校がワタンポネに疎開する事になり、この訓練は中断致しましたのは誠に残念でした。
 この事ではとても奇遇な事があり、2001年に戦友会の宮本さんのお誘いで、元ハサヌディン大学の学長で現イラン大使のバスリ閣下のご子息の結婚式に御招待を受けて、絢爛豪華なブギス族の3日間に渡る式に参列致した時、初日のバッチンの式の時にバスリ閣下のお父様か奥さまのお父様か良く判りませんでしたが、私と同年輩の方が私の顔をしげしげと見て「昔何処かで見た人と良く似ている」といわれ色々と話を聞いてみると、マカッサル師範学校の卒業生で在学中にグライダーの訓練を受けたと云われ、私も一緒にやったと云ったら「矢張りあの時の教官だ」と60年ぶりの再会で本当に奇遇でしたが、奇跡的再会に驚き昔話に華が咲きました、確か7,8回位しか訓練は一緒にやらなかったと思うのですが懐かしい思い出になりました。

現地召集、スングミナサ兵舎入隊

20年5月頃より始まった現地召集も1次、2次、と続き回数が増えて行き同僚が次々と召集されて行きました。民政部では各宿舎に分散して居りました理事生たちを、鎌倉通りと高砂通りの角の宿舎に集合させて、男子宿舎として合宿させました。其の頃マカッサル研究所がスラバヤに移転いたし、多く職員達が民政部に統合されまして役所に来ました。主計課にも多数入りまして新しい友人が増えました。 男子宿舎での生活は仮住まいのような次第でしたが、皆で遊びに行ったりバドミントンをしたり楽しかったです。 然し段段と召集されまして人数も少なくなり、女子理事生達も地方に疎開して最小限度の要員だけマカッサルに残り寂しくなりました。斎藤大尉も司令部の傘下に入り、ワタンポネ派遣隊長としてボネに赴任致しました。(この件は後で聞きました)
 酒保の仕事も殆ど開店休業でたまの配給もヨピーに任せ、もっぱらマリノに物資を運ぶ仕事に関わりました。民政部も遂に各進出商社の戦時下事業接収に踏み切り、政務部長を本部長として小笠原課長や湯浅大尉などが中心となり大事業が始まりました。
 7月下旬に遂に私にも召集令が来ました。第5次の召集で8月1日に入隊の事でした。それからはヨピーと酒保の残務整理で忙しい毎日を送り、酒保の残品の整理や資産の整理で大変でしたが、未だ配給は来るので幾許かの資金を残し、残りは臨時軍事費に納入致し後はヨピーに頼みました。
 ヨピーは別れの時私にお祖母さんの形見のウイルヘルミナ女王の金貨を呉れまして「万が一の時に役立てて」と涙を流して無事を祈って呉れました。この金貨はマリンプンから引揚げの際貴金属の携帯は厳罰との事で、石鹸に埋めこみましてマリンプンに埋めて来ましたが、本当にヨピーに済まないことを致したと今でも悔やまれます。私もヨピーに兄から貰った洋服地や入隊に不要な物など数多くの私物を上げましたが、物が無くなっていた時なのでとても喜びました。ヨピーの大事な宝物を貰い全財産を上げても足りないと思い感謝致して居ります。

 8月1日に入隊致しますと、もう殆ど若い者は居らず40才以上の人が多く、私の分隊約20名の内、銃を使った教練を行った者は私と工作隊から来た22才の二人だけで、後は初めて銃を握ったと言う人ばかりで、分隊長は予備役の下士官で、班長は大陸で戦った歴戦の勇士で体一杯にクリカラモンモンの刺青をしたやくざの親分みたいな人で、この人が威張って分隊を仕切って居りました。 訓練の時は若手二人が中心になり全てをやりました。この若い二人が親分に可愛がられ「アワさん、ナカさん」と古参兵並みの待遇で飯上げ掃除など一切の内務班の仕事などしないで、下にも置かない待遇で上座に座り、ご飯やおかずの盛りも良く最高に良い気分でした。
 洗濯は課長の所のジョンゴスが毎日自転車で取りに来て塀の所で「トアン粟竹」と呼ぶので行くと、袋に入れた洗濯物と菓子、果物など持って来てくれました。私はその時はもう止めて吸いませんでしたが、タバコなど有り皆に上げるととても喜ばれ益々顔が良くなりました。後で聞きましたら皆湯浅さんの指図でやって呉れたとの事有りがた涙が出ました。訓練は人一倍やりましたがそれ以外は何もやらないので居心地が良く、皆とてもこぼして居りましたが入営中は天国でした。

 訓練も10日経ちまして朝礼の時「粟竹二等兵」と呼び出され、何も悪い事してないのに何事かなと思って前に出ますと「ワタンポネ派遣隊勤務を命づ、直ちに出向せよ」と思もよらない辞令が出ました。早速に皆に別れを言いまして、荷物を纏めマカッサル行きの交通車に乗りまして、直ぐ役所に行きますと皆驚いてどうしたのと聞きました。 当時一課長を(総務課長)兼務して居りました小笠原課長のところに行き、軍隊式に申告を致しましたらニコニコして「斎藤が呼んだんだ、ボネで新しい仕事があるから一生懸命やりなさい」と云われました。湯浅大尉は「お前が入隊する時から斎藤と藤井が話をして決まって居たことだから、期待を裏切らない様に頑張りなさい」と言われ何事かなと、半分期待を半分は不安の気持ちでその晩は課長の官舎に泊まり、翌日主計課の皆さんに別れを言って巧い具合にワタンポネに行く車に便乗してボネに旅立ちました。
 出発の時主計課の皆さんがヨピーと二人きりにさせ様と気を遣いましたが、ヨピーが照れてわざと私を避ける様にしていたのが思い出されます。遂に彼女は声も掛けずに去って行きましたが、後で課長があの時ヨピーは涙を隠して居たよと聞かされ、たった一年半位の付き合いなのに恋とか愛とか言うのとは違う、深い友情で結ばれていたのだと思います。戦後何度かアンボンに居るヨピーの所に手紙を出しましたが、音信不通のままで今日に至りました。

ワタンポネ派遣隊

8月12日ベンゴー峠、ネンゴー峠を越えましてワタンポネに到着致しました。ワタンポネは南セレベスでも一番の親日家のボネの酋長のお膝元で、気候が良く農作物に恵まれ、海にも面して海産物も豊富で、人心も穏やかで住民達も親日的で協力的な我々の第一の身方でした。 民政部は早くよりこの土地を民政部の疎開地と定め 状況が悪化し敵が侵攻してきてもこの地ならば生き残れると思い、早くより手を打って大物の地方課長の高橋司政官を県監理官として送りこみ、首長家との折衝に当たらせ敏腕の渡部警部を分県監理官として人心の掌握に努め、大尉クラスの大物の派遣隊長を置きまして大いに王家との親睦に務めました。
 民政部は既に王家の広大な所有地に疎開職員の宿舎の建設の青写真が出来て居り、さらに土木課の技師達職員は現地入りを済ませ準備段階に入って居ました。斎藤大尉は私にその建設の仕事の一端をさせ様と、高橋監理官や渡部監理官に進言してこの結果になったと言いました。

 派遣隊に到着致しますと、斎藤大尉がニコニコして「ご苦労さん待って居たよ」と迎えて呉れました。派遣隊には最初から居た隊長の准士官が居て先任下士官以下兵曹、上等水兵一等水兵など歴戦の勇士が居て、私は最下位の二等兵だし誠に居心地が悪く然も隊長は後から乗り込んで来た兵科で無く主計科士官で、そのお声掛かりの私としては座る場所も無くウロウロとして居りましたら、皆さん親切にまるで特別の民間人扱いで受け入れてくれました。その外に約20名位の兵補(インドネシア人の兵隊)が居りました。 食事の時も先任の兵長がお給仕してくれるので私がやろうとすると「良いから座っていなさい」とお客扱いで呼ぶ時も隊長や兵曹長の前では「粟竹」と言いますが、そうでない時は「粟竹さん、粟竹さん」と呼ぶので本当に困りました。翌日斎藤派遣隊長に連れられて監理官事務所に挨拶に行きましたら顔見知りの四課長だった高橋監理官が「良く来たねご苦労さん」と迎えて呉れました。そしたらマランでお世話に成った大田原書記が秘書官として居られましたので、驚いて再会を喜び宜しくとご挨拶致しました。その後分県監理官事務所に行きまして渡部警部にご挨拶致しました。初対面でしたがとても豪快な柔道で鍛えた如何にも警察官らしい恐い感じの人でしたが、話すととても優しく山形弁でニコニコと「明日から教える事が沢山有るからカントル(事務所)に来る様に」と言われました。
 派遣隊では何をすれば良いのやらウロウロとして居りましたが、何か手を出すと皆さんが「良いから、良いから」とさせて呉れないので弱りましたが、それならばと渡部さんの所に行きまして、ブギス族の習慣や首長王家のことなど教わりました。また簡単なブギス語など教わり、出来るだけ土語で話し早く土地に馴染むようにと教えられました。 渡部さんは日常サロンとバジュウとソンコのブギス族の服装をして役所に勤め、インドネシア語がとても流暢で特に土語のブギス語もとても堪能で、職員と話すのは全部ブギス語で話すので現地の人の信頼も非常に高く人気が有りました。終戦後の抑留地のマリンプンでも同じ宿舎でとても可愛がって戴きました。帰国後は山形県警本部長を務め、その後お寺の住職として仏門に使えた人格者です。

 ワタンポネ病院の院長は八課長(衛生課長)の松井司政官が居られ、看護婦長に阿部さんなど顔見知りが大勢居りました。特に教員の田崎和子さんが居たのはとても心強く後に田崎さんとボネ県下各村村を回ったのは良い想い出に成りました。

 派遣隊にもやっと馴れた3日目に「ボネ在住の日本人は派遣隊電信所に集まる様に」との指示に皆近くの電信所に集まりましたら、「これから重大放送があるから」と言われ何事かと思い聞き耳を立てますと、ガヤガヤと雑音が聞こえ内容は良く聞き取れなかったが、前にいた陸軍の将校が嗚咽を堪えて居ったので、これはきっと戦争が終わったのかなと思って居たら、斎藤大尉が「只今終戦の大詔が報じられました。各自持ち場に帰り冷静沈着に行動する様に」との訓示がありまして、私は「嗚呼、遂に終わったか、これからどうなるのかな」と案外冷静にして居りました。

 その夜隊長は兵補以外の全員を集め「くれぐれも軽挙盲動を慎む様に」と訓示がありました。兵補たちは早くから情報が入って居たらしく、何時の間にか居なくなりMerdeka Merdika(独立だ独立の時が来た)と騒いで居りました。
 16日からは司令部の指示により、武器の監理などの命令が次々と来て忙しく成りましたが、皆案外落ち着いて居て整理も終わるとする事が無いので、非番の者たちで武器庫から銃を持ち出し近くの湖に鴨撃ちに出かけたり、現地製のビンの爆雷を持って魚とりに行きました。鴨撃ちは猟銃の他オランダのベルクマンと言う小型機関銃を持って行きましたが、ベルクマンは丸い弾倉に拳銃の弾くらいの大きさの弾を50発ほど弾帯に詰め、映画に出てくるアメリカのギャングの様に腰弾射撃でバラバラと空に向けて撃ちましたが、射程距離は200m位でちっ とも当たりませんでした。直ぐに銃身が熱くなり続けて撃つと焼けて、良く火傷を致しました。
 爆雷はタバコの火を付けて海に投げますと、海中で爆発致し魚が沢山浮いて来ますが直ぐに沈み、始め近くに居るネシアの人に飛び込んで捕って貰いますが、帰って料理して貰いますと身がフニャフニャで綿みたいで不味くて食べられませんでした。 そんな事をしている内に渡部さんからブラブラしているなら手伝いにこいと雑用を言い付かり、滞在の日本人との連絡などの仕事を致しました。
 その内民政部のボネの宿舎の建設がどんどん始まり、多数の土木課の皆さんや建設に従事する方々が増え始めました。8月末頃渡部さんと斎藤さんと3人で私の運転でボネ傘下の視察旅行に行き、各地の分県監理官の所に廻り建築資材の提供を依頼して回りました。

 その間兵補たちが不穏の様子なので、隊長に武器の提出を迫ったり情勢が怪しくなったので、武器の監理を厳重にして弾薬だけ別の所に隠したり致しましたが、大体武器庫の中には日本軍の武器は97式重機関銃が一番大きく、99式小銃も隊員の数だけ無く後は全部オランダ製の戦利品でしたので、台帳も余り正確でなく私の勘繰りですが、多分戦利品の武器の殆どは兵補に渡したのでは無いかと思って居ります。一度斎藤さんに確かめて見ようと思って居りましたが遂にその機会は有りませんでした。

ワタンポネでの終戦

その内隊長より田崎教員と一緒にボネ県下を廻り、先に頼んだ宿舎の建築資材の提供の宣撫工作に行く命令が降りました。一行は私、田崎さん、ワタンポネ病院の男性の薬剤師さん(お名前失念)と田崎さんの同僚で、中国系インドネシアの女の先生でフオードの小型車に先生と私3人でもう1台の小型トラックに薬剤師さんとネシアの運転手が荷物を満載して出発致しました。監理官事務所より連絡が有りましたので、行くカンポン(村)では沢山の村人が集まっており、私がハーモニカを吹いて歌の上手な田崎さんが日本の歌やインドネシアの歌を歌い、集まった子供達と簡単な遊戯など致し、薬剤師さんは村の病人達に薬を配ると大変な人だかりで大盛況でした。
 薬剤師さんの話しによりますと、薬など飲んだ事の無い村民は何の病気でも仁丹3粒で治ってしまい、潰瘍や傷、火傷などはヨーチンやオゾを塗っておくと直ぐに治ってしまうとの事で長い列が出来大評判でした。 キニーネはさすが貴重品なので日本人向けに少量持って行きましたが、マラリアで重体の村長夫人などに上げたらたちまち治ったとその宣撫効果は素晴らしい物でした。
 夜はパッサングラハン(簡易旅館)に泊まり、食事は監理官官舎でご馳走になりました。時には村長のお宅に招かれバナナの葉っぱに盛られた料理を手で摘まんで食べました。翌日はもう次の村では噂さを聞いて準備をして待って居る次第で、どうせ置いといても占領軍に持って行かれるなら皆に配ってしまおうと、気前良く宣撫用のサロンやバジュウなど配りました。一番人気は田崎さんの歌でその次は薬の配布でした。私も一生懸命ハーモニカを吹きインドネシアの歌を歌いまして下手なブギス語で話すと大喝采でした。 この時既に各地で独立運動の兆しが見え始め、それに便乗した盗賊の活躍などの情報が入りましたので、斎藤大尉は私に田崎さん始め皆の安全を守るために拳銃の携帯を認めまして、戦利品のコルトの弾倉回転式6連発の小型拳銃を持たせました。そんな物で安全を図れるとは思いませんが、気休めで結構面白がって野鳥などパンパンと撃ちまくり田崎さんに叱られました。宣撫工作は1週間の予定でしたが品物が余ったので、もう少し回ろうと予定を延ばしましたら、斎藤さんが心配して途中まで迎えに来て呉れました。斎藤さんは何も言わなかったが後で渡部さんがとても心配して夜も満足に寝てなかったと聞かされ、調子に乗って勝手なことを致し、申し訳無かったと心の中でお詫びいたしました。あの宣撫工作が利いたのか建築資材はどんどん集まり建設もはかどりました。

 9月に入りマカッサルよりドンドン人が移って参り、進駐軍の豪州軍もワタンポネにやって来ました。派遣隊も解散致し皆さんは原隊に復帰いたし、豪軍による武器の接収もあり私の軍刀も供出致しましたが短刀だけ隠して置きました。 私は派遣隊を引き払い新しく出来た宿舎に移り、留守番と運び込まれた物品の番人を致す事になり、興南組から来た川崎氏と二人でこの仕事に就きました。彼は元相撲取りで体格も良く腕力にも優れて誠に頼もしい相棒でした。言葉も流暢だしそれに彼の子分のヤンパーと言う若者が我々の面倒を見て呉れまして、このヤンパーが実に良く働き、誠に気の利く人で料理も美味いしとても助かりました。川崎氏は中々の社交家で首長の甥とも仲良く、時折食事に招待されました。彼と留守番をしている時マカッサルより運んできたトランク一杯の銀貨を我々の寝ている前の庭に埋めまして、これならば安心と番をして居りましたら、ある朝見ると大きな穴が開いて見事にトランクが消えて居りました。その前にもマカッサルより運ばれてきた職員のトランクが泥棒に捕られる事件があり、警戒して居りました矢先にやられまして、莫大な金額の被害なので、斎藤さんに申し訳無いと報告致しましたら、「相手が泥棒では致し方ない、寝首を掻かれて命を取られるより無事だったので責任は私が取る」と言って呉れました。 然し埋めた時は私、川崎氏、ヤンパー、主計課の今井氏、川崎氏の5人だけで、相当深く1m以上掘ったので簡単には掘り返せられない筈なのに、どうして私たちの枕元近くにあるのに盗られたのかと疑問に思いましたが未だに真相は判りません。 その内川崎氏はヤンパーを連れて興南組に帰りました、私はヤンパーに世話に成った御礼に彼が一番欲しがっていた短刀をどうせ持っては居られないからと上げました。彼はとても喜び「トアンカチャマタの記念に大事に致します」と名残を惜しみました。  ドンドン民政部の職員達が着ましてとても賑やかになり知っている顔が集まり楽しい集団生活が始まりました。

 その内街の中にも豪軍はドンドンと増え我々のキャンプの中にも時折入って来ましたが、将校は一応紳士で綺麗な英語を話しますが、兵隊は牧農か労働者か教育を受けてない人々で物凄い訛りのある英語で、勿論私のもThis is a pen の手合いですがピパーピパーと言うのでパイプかと思ったら紙のペパーの事で丸っきり判りませんでした。何を見ても欲しがり時計、万年筆など見つけると半ば強奪されました。 私もジャカルタで兄に貰ったシーマーの腕時計を盗られましたが、何時か仇を取ってやろうと思って居ましたら遂にその機会がありました。

 ボネに滞在中豪軍は我々の行動は自由で、好き勝手に街に遊びに行きました。丁度給料から天引きして居りました軍事郵便の貯金が全額払い戻しになり大金が入りました。持って居ても軍票は使えなくなるし紙切れに成るなら、幸い使える内に使おうと不思議な事に現地住民はオーストラリヤの軍票より日本の旧軍票の方が喜ぶので、皆さんを引き連れ勝手知ったるワタンポネの街を案内致し、街外れの汚いが味は絶品と言う中華料理の店で毎日毎晩大宴会で、段段仲間も増え始め店は貸切で美味しい物を腹一杯食べて、最後に消化の良いパパイヤを食べ、約30分の道のりをキャンプまで歩いて帰りました。
 皆さんのお金が無くなるまでは大分の時間が掛かり、店で食べ終わり帰る時に翌日のメニューを注文して、子豚の丸焼きとかアヒル鶏や魚料理など、親父は盆と正月が一緒に来たような大喜びで、家族4人で仕舞には手伝いの人も雇い大繁盛でした。 お陰でマリンプンに移動するまで1ヶ月位の間に私は丸々と太り、栄養を蓄える事が出来まして多いに健康の為に役立ちました。

 或る日街を歩いて居ると5、6人の豪州兵に囲まれました。その中に私の時計を盗った奴が居るのでヤバイと思って居りましたら、何か早口で喋りますが意味が通じなく困ってますと、卑猥なジェスチャーでネシアの女の人を指差しましたので意味を察し、彼らは若く性に飢えて居て、その手の女を探してくれと言って居りました。その点は渡部さんに街の隅々まで教えて貰った実績が有りますのでOKと下町に連れて行きましてJalan P(ジャラン ピー)と呼ばれる街娼のたむろしている所に行きましたが、街娼は彼達の姿を見て恐がり逃げ出そうとしたので、私は「ヘイ、マックンライ ロッカコマイ アジャマ シリシリ マ ガッテコ」(ハイ娘さん達恥ずかしがらづにこっちに早くお出でよ)とブギス語で呼びとめましたが、彼らは言葉が判らず困っているので交渉する事になりました。通常相場は1ルピーですが時計の仇を討たなくては成らないので「一人5ルピーだ」と言って人数の分を集め女に「2ルピーで話しを付けてやったから」と金を渡したらとても喜び感謝して居りました。余り誉められる行為では有りませんがこれで少しは時計の仇を討ったと思って居りましたら、翌日もまたその次も彼らに捕まり、段段に人数も増えましてお得意さんになり、彼女達も私を頼りに致しすっかりポン引き屋になってしまいました。
 中華屋の勘定は任せて置けなどと皆さんに奢って上げるようになり、皆に「ブギス語を習って本当に役に立ったね」などと言われましたが、或る日街を車で走って居ると、あの時計野郎がおかしな歩き方をして居るので良く見ると彼は性病に罹り病院に行く所でした。若し兄が死んでいたら形見に成る俺の時計を盗った報いだとやっと仇が取れた気が居たし、明日からはあそこには近寄れないと行かなくなりました。

 10月に入りマカッサルから占領軍との引継ぎなどの仕事を終えた方たちがドンドンと増えまして、湯浅さんも私の残したトランクに私物を詰めて持って来てくれました。 この宿舎は土木課の技師さんたちがご自慢の建築で、資材は竹とニッパですが設計が素晴らしく、トイレなども手動ですが水洗でとても良く出来て居ました。然し10月半ば頃突然連合軍より、南セレベスの日本人は全員マリンプンに集結せよとの命令が出ました。
 この命令には驚きました、マリンプンと言えば先の第1次大戦の時、ドイツ兵の捕虜が収容されましたが殆ど死に絶え、またジャワよりの移民も全滅した死の草原と言われた場所でした。何故そこにとこれは大変な事になったと思いましたが、折角ワタンポネに楽園を建設したのにそれを捨てて行くのは残念だし、又マカッサルその他の各地より集結して来た人たちや、膨大な物資のマリンプンへの輸送など大問題が発生いたし、その日から輸送本部が置かれ、マリンプンでの収容所建設の人数を送ることに成りました。

 私は輸送隊に属する事になり、物資の搬送に携わる事に成りましたが、マリンプンへはワタンポネよりポンパヌア経由で、ワタンソッペンに行き、パンカジェネからラッパンにピンランを通りマリンプンの草原に入りました。 夕方ボネを出まして徹夜で走り、明け方マリンプンに到着する行程で、運転手2名と警備1名の3名のチームでした。何度目かの時から途中で夜盗に陸軍の輸送隊が襲われ、死傷者が出たと情報が入り緊張いたしました。  時には武器を持った一団に停車を命ぜられこれは駄目かと覚悟を決めましたら、覆面をした隊長らしき男が運転席を覗き込み「粟竹さんじゃないですか」と言われ驚きますと、派遣隊に居た兵補の班長でした。「武器になるものは有りませんか?」と言うので何も無いと言ったら、独立の為に戦うのだと言われ、頑張ってくれと言ったら粟竹さんも一緒に戦ってくれと言われたが、今は任務に付いて居るから駄目だ、考えて置くと言って激励して別れましたが肝が縮みました。でも知っている班長で良かったと思いました。
 又或時は夜盗が道路一杯に焚き火を致しまして、車を止め様と待って居ました。道が狭くターンする事が出来ないので100m位手前で止め、3人で相談して決死の覚悟で強行突破する事にして、目を瞑り直前でギアを落とし火の上をバリバリと乗り上げ乗り越しました。油に火が付いたらどうしょう等と考える暇も無く、山のような焚き火を蹴散らし火の粉を飛ばしながら全速力で走り抜けました。泥棒達もまさか走り抜けるとは思わなかったのか、驚いて逃げ惑い私達も懸命に逃げました。然しスローに成った時3名ばかり飛び乗りましたが、警備に乗っていた地方課の剣道の名人西田氏が持つていた木刀で突き落とし事無きを得ましたが本当に恐い思いを致しました。
 最終集合期限を決められ刻々と時は迫り皆寝る間も惜しんで頑張りました。いよいよ最後の車になったとき、襲撃に備えて4台か5台の隊列を組んでワタンポネに別れを致す事に成りましたが、確か湯浅さんが輸送隊長でありました。その日街を通過すると師範学校の菅藤先生が歩いて居るのを見つけ、驚いて「先生これが最後の車だよ」と声を掛けますと「全然連絡が無かった」との事で大急ぎで荷物を纏め車に乗って貰いました。若し行き逢わねば先生は大変な事に成る所でした。途中中華料理屋の所を通りましたら家を取り壊して新しく新築して居りました。あの家も私達のお陰で大儲けの産物であろうと良い事をした気分でしたが、敗戦国日本では将来もあのような贅沢な中華料理は食べられないと懐かしく思いました。もう二度と見ることの出来ない思い出の多いワタンポネの街に別れを告げまして、隊列は進みました。
 沿道には顔見知りの人達が見送ってくれ、中には「トアン カチャマタ」と声を掛けてくれ果物やゴゴス(インドネシアのちまき)など車に載せて呉れました。当時のトラックは日産自動車戦時決戦号と言われた車で、運転席は木造でシートも木のベンチで少し走るとお尻が痛くなり、長いドライブでは体がミシミシ言う代物でした。それに散々酷使したのでタイヤもボロボロで、直ぐにパンクするので1時間毎に停車してパンクの修理でした。辛いのは修理後の空気入れで、これはいま思い出しても息が切れる辛い仕事でした。    マリンプンの地図 pdfファイル

マリンプン収容所

何回も途中停車して、翌日午前中にマリンプンの草原に到着致しました。先発の設営隊のお陰で宿舎は殆ど出来あがって居りました。  私達は民政部職員の入る第八群12棟に決まりまして荷物を置きました。民政部の職員はマリンプンとベンテン地区とに別れ、主計課の皆さんも二手に分かれて仕舞いました。12群は一番外れで各課長クラスの方が多く偉い人ばかりでしたが、小笠原課長湯浅さん斎藤さんボネの渡部さん佐伯さんその他親しい方が大勢居りましてとても良かったです。課長クラスやその他高等官の方は宿営委員会と言う協同生活運営の為の連絡機関の何かと仕事を任命されそれ、以外の人は各当番を決め階級の区別なく空いてる人は使役の仕事に付きました。私も道路の整備やその他の使役に出かけましたが、マンデーの水には困りました。土地が悪く火山灰地帯みたいな石灰岩のようなので、井戸を掘っても白い水でマンデーをすると体が白粉を塗ったみたいに白くなり、乾くと粉ぽっく成りまして弱りました。食事はおかずは美味しくは有りませんが、ワタンポネに居た時に贅沢な美味しいものばかり食べていたので致し方なく、その時蓄えた栄養と脂肪のお陰で当分の体力の維持は万全でした。

 その内進駐軍がオーストラリア軍から英印軍に変わりました。時折使役などに出ますとターバンを巻いたインド人の兵隊さんが監視に付いて来ます。彼らはとても親日的で道路工事などしていると「暑いから木陰に入って休め」と彼はドラム缶の上に上がって我々を見張るので無く、オートバイで巡察に来る将校を見張って来るとガンガンとドラム缶を叩き我々に教えて作業をしてる振りをさせました。 又良くネシアの農民がバナナやパパイヤなどの果物を担いで来ると、我々は彼らと接触すると銃殺などと言われ禁止されて居りましたが、着ているシャツなどを脱いで彼氏にこれと交換してきて呉れと頼むと、「シャツは良いから」と農民の所に行って銃剣で「コラー」と追いかけ農民は驚いて荷物を投げて逃げて行くと、それを担いで来て皆に食べろと言って「日本は必ず近い将来にアジアの指導者となりインドとは兄弟だ」と言って居りとても楽な使役でした。嫌な使役も楽しいものになり、これもインドの人のお陰で英語の話す人が居ると何時までも話しこみ全然作業は進みませんでした。
 抑留とはいえマリンプンの生活は規則正しく規律も守られ、電気なども引かれまして生活基盤も段段と整備されまして、医療も当時一流の医師の定期検診や診察など万全を期し、その内演芸会や映画の上映とか各専門家の学術講演、相撲その他のスポーツ競技会など色々なイベントが行われ、戦後話に聞くシベリヤの抑留者の悲劇などと比べると天と地の違いがありました。

 その内各自宿舎の廻りに自家菜園を作り、あのジャワ移民が全滅した不毛の土地に農業指導員の講義を受け、皆さん驚くほどの成果を挙げました。私も長茄子と落花生に挑戦致しましたが、落花生は失敗で山羊の餌に成りましたが、茄子は大成功で大きな実が沢山収穫され皆さんで食べました。然しその陰には湯浅さんと二人で便所から肥料に肥を汲んできて、くさい思いをして撒いた事も有り大変でした。復員の時期が迫る頃皆さんの菜園も収穫の最盛期で食卓は賑わい楽しい思い出でです。

宿営委員会 食料配給班

或る日朝礼が終わると小笠原課長から呼び止められ「委員会の中に食料配給班と言うのが有るので、今日から其処に出向するように。」と言われまして折角楽な仕事ばかりやってたのにと、事務所に行きますと皆さん年配の方で「ご苦労さん」と迎え入れてくれました。班長は戦前より有りました米星産業KKの社長で岡崎さんと言われ、関西弁で話すとても面白い人の良さそうな方で、若い時より南方に進出しておりオランダ語、英語、インドネシア語のとても上手な方でした。
 副班長は三越の子会社で食料品の二幸の南方総支配人の服部さんで、この方との出会いが私の帰国後の運命を決めて下さいました恩人の一人です。あと司令部主計科より小日向兵曹長と山形兵曹が居られました。この二人は主計のベテランで歴戦の勇士であり、軍艦にも乗っていたので何でも知っている頼りになる方でした。司令部よりもう一人トラちゃんと呼ばれる若い上等水兵の方が来て居りましてこの人がとても良く働き、上官二人の手足の如く動くので感心致しました。その他各群から毎日当番で使役の人達が7,8人来て居りました。
 服部さんが私の名前の章二を見て章魚と同じだと「タコチャン、タコチャン」と呼ぶのでとうとう皆さん私の事は「タコチャン」に成ってしまい、小笠原さんは亡くなる最近まで私のことは「タコチャン」でした。皆さん若い私をとても可愛がって下さり、特に山形兵曹は弟の様に面倒を見てくださり色々と教えて下さいました。

 配給班の仕事は陸海軍軍属一般邦人全ての抑留人員に対する食料配給の分配の公平と監視が主な仕事で、不正な人員申告が無いか物品の授受は適正に行われて居るかを掌る配給の御目付け役でした。毎月月初めに英印軍の司令部に前月の食料の配給状況とカロリーの計算書を届ける仕事がありました。書類は全部本部で作って呉れまして、本部に寄り届けるのが一番若い私の仕事でした。
 マリンプンよりベンテンまで交通車に乗り、本部で英文の書類を受け取り進駐軍の司令部に持って行きました。司令部の主計科の士官は全員女性士官で金髪の確か中佐ぐらいの人が先任士官で、同じマリンプンに抑留されている画伯が画いた浮世絵風の春画をお土産に持って行くととても喜び、碌に書類も見ないのに受け取りのサインをしてくれ帰りにレーションをお駄賃に呉れました。 このレーションを見たときにこれでは戦争に負けると思いました。四角い箱に入った携帯口糧で主食から副食、コーヒー、タバコ、ガム,その他全部揃っていて箱も油紙で最後は燃料になるなど至れり尽せりで感心致しました。とても美味しく高カロリーでビタミン剤まで入って日本の乾パンだけとは大違いでした。ただし途中で検問所があり身体検査でレーションが見つかるとその入手経路をしつっこく聞かれ、通訳の方に今度はサインを貰って来る様にと言われまして、次回からは大居張りで持って帰りました。
 帰りにベンテンの病院に寄りまして、臨時看護婦として勤務している藤野さんや田崎さん他民政部の理事生の皆さんと会うのが楽しみでした。藤野さんは何時も大忙しで碌に話しも出来ませんでしたが、田崎さんやウスベーこと臼井さんは薬局の秋山薬剤軍医大尉の所に居たので、お土産に現地製のポマードや時には消毒用アルコールで作ったウイスキーなどの貴重品をお土産に貰って来るのがとても楽しみでした。

 小日向兵曹長と山形さんは天才的頭脳の持ち主で、その場に有る物で応用して色々な物を作りました。また応用料理の名人で、缶詰で焚きこみご飯やチャーハンなどすぐに作り、その才能は驚く程でした。配給班は群のほぼ中心に在りまして倉庫と宿舎兼事務所とが在り、通いは私だけで全員泊り込みで炊事はトラちゃんが山形さんの指示で作って居ました。昼食だけ其処で食べましたがとても美味しく夜食も食べて帰りましたので、宿舎の連中が私の分が皆さんに渡るのでとても喜ばれました。
 山形さんは物資調達の名人でネシアとの接触を禁じられて居りましたが、特別のルートがあるらしく配給班の宿舎には何でも有りまして鶏まで飼い最後は山羊まで裏庭で飼ってミルクを取れるようになり、良くミルクコーヒーを作ってご馳走して呉れました。 又空のドラム缶と椰子殻を利用して浄水機を作り、とても綺麗な水を作りまして班長の提案で各群にその作り方の指導に行き喜ばれました。又使役に来る人たちが喜んで来たがるのは3時に山形さんとトラちゃんが作って呉れるお八つで、お腹を減らしている方にはとても魅力だったと思います。時には各群の炊事場で物物交換でお釜のお焦げを貰い、それを集めて油で加工いたしグラメラ(椰子砂糖)でオコシを作ってくれました。その美味しかったこと、使役当番の皆さんもとても大事にそうに食べて居りましたのが思い出されます。
 配給品に油はとても重要な品目ですがこの配給の時に私がマリノに運んだ播公司より仕入れた落花生豆油があり懐かしく思い出し、とても高かったですが買って良かったと思いました。マリンプンの食生活も各群で大きな開きがあり、配給で各群を回って見ますとその格差は酷かったと思います。
 一番良いのは実業団の商社関係で、その次が地元の司令部,民政部を始めとした地元部隊で一番惨めなのは何にも持たずに来た陸軍の撤退部隊で、地元の者はなにがしかの持ちこみ品や私物も有りますが、陸軍は何にも無く食事も配給だけでした。
 配給の分量も一応は充分とは行かないが、白米は一人310gの割り当てがあり、空腹をまかなえる分量とカロリーは支給されて居りましたが、陸軍は海軍と違い上下の差別が酷く海軍の様に一艦一家と艦長は父で、部下は子供の精神が無く、聞いた話では上官たちは部下の食料をピンハネして腹一杯食べ、部下は時には二食で常にひもじい日常だったと聞いて、班長の岡崎さんが連絡会議の時に「配給には公平を期し全員に行き渡る様に成って居るのに、一部でその様な事実が有るのは民主主義に支障を来たす」と改善を申し入れましたが、我々配給班は決められた分量を炊事場の受領責任者まで届けるのが仕事で、それから先は各群内に任せてあるので介入する事が出来ず、陸軍と海軍との組織の差を痛感いたし、ひもじい兵士達に同情いたし鱈腹食べている上官をすごく憎みました。陸軍部隊の酷い状況下でお米の配給の際、最後に到着した群ではトラックの荷台に零れたお米の取り合いで血を見る大ケンカが有りました。丁度山形さんと上乗りして居りまして仲裁に入った山形さんが怪我をする始末で、これは如何にかしなければならないと、山形さんの提案で荷台に竹で作ったスノコを置きましてお米を掃き寄せられない様にして、最後の群での当てにしている人達にはとても気の毒でしたが、危険を避けるために処置致しました。
 その結果最後に倉庫に帰着いたし掃除を致しますと、結構沢山の砂と小砂利の混じったお米が残りました。それを運転手と使役の人達にコップに山盛り一杯づつ分けて砂の一番多い残りをバケツに入れて居りました。私はこんな砂だらけのお米をどうするのかと思いましたら、山形さんはまず大きな丸いザルでゴミを取り、袋に入れて振りますと小石だけ下に溜まり、砂の混じったお米を取りまして「タコちゃん手伝って」と言って使うだけお米を何回も洗い、最後にバナナの幹を溝の様にした物にお米と水をかき混ぜながら流すと小石が残りお米だけ流れて行きました。最後にもう一度ザルで振るいますと綺麗なお米だけ残り、後の砂だらけのお米は鶏の餌になりました。
 このお米で私の大好きな牛肉大和煮の缶詰で焚きこみご飯を作って呉れまして、残りはお握りにして宿舎に持って帰り主計課の仲間と夜中にソーット皆に内緒で食べました。美味しいので夢中で食べていると、ジャリと石を噛み嫌な気分に成ったのも懐かしい思い出で山形さんの面影が浮かびます。

 山形さんは油の配給のとき、ドラム缶の底に沈殿したドロドロした沈殿物を精製して綺麗な油を取り出すのが名人でした。各群は空のドラム缶を欲しがりましたが必ず後で届けると約束致し、回収して油の再製を致しその量は石油缶3缶ぐらいに溜まり、交換したりまたもうその頃は各自の菜園の収穫も始まったので宿舎で、天麩羅や炒め物に貰って来て喜ばれました。
 この作業も大変で5個くらい溜まると焚き火をしてドラム缶を暖め中の沈殿物を取り出し、それを煮まして何かを入れて缶で沈殿させますと上澄みに綺麗な油が取れました。その方法は極秘だそうで何回聞いても笑って教えて呉れませんでした。
 一度倉庫に泥棒が入り食料が盗まれました。皆で交代で不寝番に立つことに成り私も泊まることに成りました。喜んだのは宿舎の連中で「もう帰って来るな」と言われました。泥棒はどうやらネシアらしく、山形さんとトラちゃんは何やら鋸で切って作っておリましたがそれは罠で2.3日経ってから私と岡崎さんが当番の時夜中に大きな音で皆飛び出したら3人ばかりで逃げて行くのが見えまして、翌朝見たら缶詰1箱と豆の袋がなくなって居ましたが、ピソ(ナイフ)も落ちており皆で深追いすると命に関わると、倉庫の廻りに綱を回し空き缶などをぶら下げて鳴子のような物を作りましたらもう来なくなりました。
 今でも思い出すのが私の誕生日のとき山形さんがカッチャン.イジョー(青豆)で餡子を作りお萩を沢山作って呉れまして、皆で祝って下さり宿舎の人達の人数分作って、皆さんにお土産に持って行くようにとしてくれた事は今でも忘れません、復員後お便り致しましたが確か九州の方で遂に音信不通になったのはお世話に成ったのに残念でした。

 又服部さんは「タコチャンは帰ってから就職の当ては有るのか?」と言われましたが、勿論「当ては有りません」とお答えしたら「よし、お前の面倒は見てやろう」と言われ、復員の時ご一緒に大磯のお宅まで連れて行かれ、一泊して翌日焼け残った二幸の本社と木挽町の工場に連れて行き当時三越が北海道の増毛に建設中の水産工場の社員として然も三越の正社員としての入社の確約を取ってくださいました。お蔭様で就職難の当時に破格の待遇で三越に就職でき、あの戦後の厳しい状況のもと、楽しい増毛の生活を送る事が出来ました。、このご恩は忘れません。

 21年5月頃から内地復員の話が出始めまして、やっと帰れるようになったと言う安堵と帰国後の不安が入り混じった気持ちでしたが、その内5月に入り復員の話も具体化してきましたので、配給班は整理の仕事に入り実業団、民政部他マカッサル在住者関係は第一便と決まり慌ただしい毎日を送りました。在庫食料を出きるだけ配給して、後は復員船に積み込む用意を忙しく済ませました。 配給班の宿舎では山形さんがお別れ送別会の準備にトラちゃんと大忙しで、最初山羊を殺して皆で食べようと言ってましたが、何ヶ月か飼っている内に情が移り、岡崎さんの反対でここでは殺さない様に話が決まり、他の炊事場で処分して貰い肉が来ましたが誰も食べず宿舎に持って帰り皆さんから大歓声を戴きましたが、私は山羊の傍に行くとメーと鳴きながら嬉しそうに寄ってくる姿を思い出し、最後まで遂に食べられませんでした。
 砂の混じったこぼれ米を食べて増えていった鶏は以前にも絞めて食べましたが、これは最後と山形さんの腕の見せ所と色々な料理で食べました。
 私が配給班に出向したお陰で良い思いをしたとは一切口に出さず内諸の話で、時折山形さん始め班長や班員皆さんの好意で宿舎の皆さんにお土産を持って行く事と、私の食事の分が皆さんに食べてもらえる事で良心の呵責に耐えました。配給班の解散も決まり残品の整理で各群に公平に渡る様に配分を致し最後に群の受領責任者で籤引きを致し仲良く皆で残品整理を致しましたが、推測ですが皆さんちゃんと宿舎まで持って行ったのかなと思いました。
 それでも半端な物が残りましたので,岡崎さんや服部さんが「タコちゃんは良くやったから宿舎にお土産に持って行きなさい」と言われ大喜び致しまして、宿舎に行き別府さんや今井さんの手を借り暗くなって宿舎に南京豆の大袋や青豆、砂糖の半端など沢山戴き、宿舎の皆さんからとても喜ばれました。
 宿舎でご一緒だった僧籍の有る今西司政官が手相を見るのが趣味で、私の手を見て「粟竹君君は稀にみる強い運勢の持ち主で食には不自由しない良い運勢をもて居て、羨ましい」と言われた事が有りましたが、北海道に行っても食糧難の時代に三越さんのお陰で3度の食事も白米を食べられたし、今までひもじい思いをしたことが有りません。  今西司政官の手相が当たり本当に有り難いことだと感謝して居りますと同時に私を配給班に出向させて下さった小笠原さんに深く感謝致して居ります。短い期間でしたが一生懸命働き皆さんに可愛がられた5ヶ月ばかりの時を今でも懐かしく思い出して居ります。

復員、引揚げ船

引揚げの話が具体化するとその準備に忙殺されました。先ず私物の整理ですが、兄にジャカルタで貰った黒革のWの立派なトランクは余り大き過ぎて持って行くことが出来ず誠に残念ですが破棄する事に決め、兄に貰ったカーキ色の厚手の服地で手製のリュックを作りました。全部の物を持って行くことは出来ず、それにマリンプンから乗船地のパレパレまで夜通し行軍するので、重いと困るので色々品選びには困りました。帰っても何も無いし少しでも持って行きたいし、毎日考え入れ替えを致しました。
 貴金属その他金目の物は一切携帯が許されず厳重な持ち物検査があり、若し違反するとその班全員の乗船が出来ないと云われ、皆さん貴重品の整理に苦悩致しました。私もヨッピーから貰った10ギルダー金貨をどうしても持って帰りたいと思い石鹸の中に埋めこみ使って判らなくしましたが、レントゲンのようなもので調べるとデマが飛び、出発前夜マリンプンの土の中に埋めてきました。後で皆デマと判りあの石鹸なんか何でもなく持って帰れたのにと悔やまれましたが、若しデマが事実で有ったら皆さんに大変な迷惑が掛かり取り返しの出来ない事に成ると思えば、あの選択は致し方無かったと心でヨッピーに詫びております。

 いよいよ出発の日に私が突然熱を出し激しい悪寒に襲われ以前患った三日熱マラリアが出て仕舞いました。私は時間が経てば大丈夫と言ったのですが、皆さんが心配して手配して下さり病人が乗るトラックに乗せて呉れました。 トラックで明け方パレパレ近くの臨時収容所に到着致しましたら、又悪寒が出て皆さんが押え付けて震えを静めて呉れました。  これはえらい事になってしまった若し船の中で出たらどうしょうと不安に成りましたら、駐在のドクターがこれを持って行きなさいと貴重品の糖衣錠のキニーネ100錠入りの瓶を下さいました。驚いてドクターのお顔を見るとマカッサル病院の内科の先生で、以前お世話になった先生で私の事覚えて居て下さり本当に助かりました。(この薬のお陰で戦後どんなにか助かったか知れません)

 船はリバテー船で船倉に蚕棚でやっと横になれるスペースが有る程度で、荷物の検査など無く、無事乗船致し船はパレパレを後に致しました。航海は順調でフイリッピン沖を通り一路内地にと向かいました。船内では暑くて居られないので皆甲板に出て船と並んで泳ぐイルカを見たり顔馴染の皆さんと色々なはなしを致し余り退屈は致しませんでした。食事はお粗末で充分な食料を積み込んだのに一度も出ず、遂いに抗議してやっと青豆のお汁粉が一度だけ出ましたが積み込んだ沢山の米、砂糖、缶詰めなどは後で聞くと皆船員達が横領して、港に到着後闇に流して大儲けを致したとの事で、我々としては運んでもらって居る弱みも有るしほんとに残念でした。然し命からがら帰って来る者の持参した食料を横取りするとはまったく酷い話で、悪い奴らだと憤りを感じましたが、彼らの言い分は船員は戦時中にゴミの様に使い捨てられたのだから生き残った今は此れぐらいの余禄は当たり前だと言ってましたが、此れも戦争の悲劇です。

 船中ではトラブルも沢山有りましたが、嫌な思い出は忘れる事にしているので楽しい事だけ書きますと、一度演芸会がありまして藤山一郎楽団の方々が音楽を聞かせてくださり、内地に帰ってからの不安を少しでも忘れる一時でした。皆さん帰国後の住所の交換などしてましたが、私は深川の家が3月10日の大空襲で壊滅したのをニユースで知って居りましたし家族の安否も不明だったので一応前住所を皆さんお知らせ致しました。段段と内地が近くなり、名古屋に入港すると聞かされました。

 5月21日に名古屋の三菱重工ドックの岸壁に着きました。その爆撃による破壊の物凄い事まったくの壊滅状態で息を飲みました。上陸致し早速にシヤワーを浴び頭からDDTを掛けられました。その間に荷物の消毒があり係員が並べてある荷物にDDTを掛けて行きました。其の晩は簡易ベットに寝る事になりまして、荷物を調べると小物が盗まれて居りました。 皆さん騒ぎ出しましたが、犯人の特定が出来ず泣き寝入りに成りました。私も小さな姪にと新しいトランプとコールゲートのパウダー、LUXの石鹸など兄に貰った新しい革の財布などが盗まれて居りました。

 同じ日本人なのに何も無い処に帰る外地からの引揚げ者の荷物を盗むなど、本当に情け無く成りましたが、後で冷静になって考えると盗ったこれらの品物もきっと其の人も欲しかったのでは無いかと、又闇市などに持って行けば子供達のお腹を満足させられたのでは無いかと思い、石鹸以外は大して必要な物でもないしと諦めました。5月だと言うのに大きなドームの中でベットを並べて寝るのはとても寒く、ガタガタと震えて又マラリアの悪寒が出るのでは無いかと心配致しましたが、咽喉が痛くなり満足に眠れませんでしたがやがて夜が明け帰宅の準備に掛かりました。
 留守家族の情報などを見ると高尾山の旅館が連絡先になって居りまして連絡先が有るくらいなら家族全滅は無いと安心して電報を打って貰いました。期間は忘れましたが日本全国共通の鉄道切符と300円と森永のキャラメルを1個貰い東京行きの汽車に乗りました。途中の沿道で人々が日の丸の小旗を振り「ご苦労様お帰りなさい」と叫んで出迎えてくださいました。踏み切りなどで小さな子供が居ると、皆さん涙を流しながらキャラメルの粒を窓から投げました。  私も姪が居る事を忘れ半分くらい投げ与えまして姪を想いだし慌てて残りをしまいました。帰りは服部さんと一緒でその経緯は前述致しました通りです。

セレベス民政部時代の想い出(3)

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