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追記(樺島中尉と戦友の墓標など):2024/09/04
クンダリは東南スラウェシ州の首都である。スラウェシ島の中で最も開発が遅れた州と言われている。東南スラウェシ州の人口は180万人、このうちクンダリ市の人口は17万人(1999年統計による)となっている。マカッサルからクンダリまでは飛行機で約1時間、車ではボネ湾のフェリーを使って1日半の距離にある。州の北半分は険しい山岳地帯、南半分は比較的に大きな4つの島とその他諸島が含まれ、海上交通が重要な役割を担っている。クンダリは17世紀のオランダ東インド会社による香料貿易の時代、マカッサルとマルク諸島の間の航海の中間地点として重要な役割を果たしてきた。クンダリ港は島影に隠れた天然の良港である。しかし残念ながら湾の入口が狭く大きな船舶は入港できない。漁船の修理を行う民間の造船所もあり、東部インドネシアで操業する日本の漁船の修理基地となっている。このところ Irian Jaya, Ambon 地区から基地を撤収してスラウェシ島へ移ってきている。またクンダリは第二次大戦中には日本の海軍の基地となった。現在でも掩蔽壕がいくつか残されている。市街は一本の長い道路に沿って形成されていて商店街、ホテル、銀行、政府各機関などすべてこの道路沿いにある。
東南スラウェシ州の人口はクンダリ県に28%のほか、Buton島Baubauに26%が集中し、経済が二分されている。両都市のホテル数を比較するとKendari 35軒 Baubau 33軒 とほぼ拮抗している。感じとしてはクンダリが行政の中心地とすれば、バウバウは商業の中心地と言える。この2都市間を民間の高速フェリーが8隻就航している。(2000年10月時点)これは両都市が州内で1,2位の人口を有し、商業ベースの運航が可能になっているためと考えられる。高速フェリーは両都市間(約200km)を約4時間で結んでいる。船はシンガポール製で、乗客のみで自動車、貨物は輸送できない。(写真上)小型の高速艇であるが航路の大半がブトン島とムナ島の間の狭い水路を走るのであまり揺れない。車利用の場合にはKendariからMuna島経由Buton島へROROフェリーを乗り継ぐ方法しかない。
クンダリには国立大学 UNIVERSITAS HALUOLE がある。また日刊紙 Kendari Posが発行されている。
1995-1889年の5年間の平均で南スラウェシ州の年間総生産高は1兆ルピア、これに対して東南スラウェシ州の場合1500億ルピアであった。州の輸出額はニッケル鉱、漁業、農産物の順となっている。その他畜産、木材関係も盛んである。Buton島の東の沖合いにTukang Besi諸島があり、ダイビングスポットとして欧州からの観光客に人気があり、このためフェリーの投入も計画されている。Tukan Besiは日本語で「鉄職人」で、この小さい島で鉄製品を生産しているという。水産物はここから日本や香港へ直接輸出される。(写真はKENDARI 造船所)
クンダリ港は生活物資などの荷揚げが多く、積荷は少ない。クンダリのホテルではスラバヤからのビジネスマンが多かった。マカッサルを経由しないで直接スラバヤから物資が送られてくるようだ。クンダリの市内で変わった木工場があった。大木の根元をスライスして変わった形のテーブルや椅子に仕上げ、マカッサル方面へ出荷されている。
東南スラウェシ州の州都クンダリは第二次大戦中には日本の海軍の基地があった。現在でも掩蔽壕がいくつか残されている。セレベス海軍戦記(湊邦三著 昭和19年6月興亜日本社発行)によると、1942年1月x日本の海軍落下傘部隊が北セレベス島に降下、同地域を制圧したあと、海軍特別陸戦隊は輸送船にて赤道を越え島の東海岸に沿って南下、クンダリを急襲し1月24日同地を占領している。最初の上陸地点はクンダリの西北方サンバラ河の河口であった。その後マカッサルへは2月8日に上陸することになる。
「1943年頃のマカッサル市街地図」の松浦一男氏によると、当時クンダリは、第23海軍根拠地隊があり、オーストラリアのダーウイン空襲の一式陸攻の基地ともなった。これが現在のクンダリ空港である。
航空輸送としては、スラバヤよりマカッサル経由、ケンダリー、アンボン、バボ、カイマナ行きの通過地点であった。 マカッサルから1時間足らずでクンダリに着くが、輸送人員の積み下ろ
しと給油のみで直ちにアンボンに向かった。 昭和18年8月21日、ケンダリーを離陸、マカッサルに向かった零式輸送機が、ポマラ上空でB-24
と遭遇、撃墜され、伏見宮殿下が戦死すると言う事件があった。 そのとき、マカッサル(マンダイの基地)で、対空通信に直接、携わっていた (レシーバーを被っていた)のは私でした、と当時を回想する。
東南スラウェシ州ではクンダリのほかにボネ湾側のポマラにも第101防空隊の基地があった。隊員は約370名、防空隊としては大きな部隊であった。ポマラはコラカから車で南へ約1時間のところ、一面粘土質の赤土に覆われ、赤土の下にはニッケル鉱の鉱脈があるため住友鉱山が採鉱し精錬所を建設中であった。第101防空隊は精錬所の対空防備が目的であった。住友鉱山の迎賓館の横に住友診療所があり日本人看護婦が居て軍医の応援によって診療を行っていた。ポマラの赤土は乾燥して細かい粒子となって1日に2回着替えしないとシャツ、ズボン、靴下が真っ赤に染まったが、この土地の水質は良く、日中は暑いが、木陰に入ると涼しく、また朝夕は涼しく、夜は寒いと感じるときもある程で居住性は比較的良かった。(元海軍大尉 国分俊一著「南海の青春」 1985年震洋通信 刊)
コラカでは、太平洋戦争のあと、インドネシアの独立戦争に参加して戦死した日本兵士の功績をたたえ、その名を街路名として残しています。
添付のPDFは、
南東スラウェシ州コラカ県 コラカ地区の地域規制 2017年第10号
『コラカ地区の文化財保護区、文化的・歴史的価値の保存と管理について』
という条例です。
この条例の8ページに
「124. Towatari;」 という表記が確認できます。
これは、第7条の条文で「地域の大中道路の名前は、(昔のその地域の)王などの文化的人物の名前、戦闘員の名前、元政府首脳の名前、歴史上で役割を果たした他の人物の名前から付ける。」という条文の名前の一覧に名前があります。
ここに名前があるという事は、コラカ地区で功績をあげ名を残されているという事であり、道路の名前に使われる候補、あるいは、使われているという事になります。(なお、実際に使用・命名されている道路があるかは未確認です。)
※日本のイメージで言えば、「トワタリ通り」という感じに使用されることになります。
その後、東南スラウェシ州北コラカ県にキャプテン・カバシマ(樺島)に関連した記念碑もある事が分かりました。これに戸渡氏の名前があるか分かりませんが、以下ナショナルジオグラフィックのインドネシア版のURLを記載します。
https://nationalgeographic.id/read/13289590/kondisi-monumen-tentara-jepang-menyedihkan https://gonganoa.wordpress.com/2015/12/14/sosok-kabashima-perwira-jepang-yang-terlibat-mewujudkan-kemerdekaan-ri-di-kolaka-utara/ナショナルジオグラフィックは、CS放送や有線放送のナショジオチャンネルとしてディスカバリーチャンネルなどドキュメンタリー番組として有名です。このネットワークのインドネシア地域向けのものです。
上記の参考記事は、1990年に東南スラウェシ州北コラカ地区のワラシホ村に建てられた日本軍のモニュメントが現在、荒れ果てている状況を報告しています。このモニュメントは、1945年に日本の敗北後に当地に残った日本軍のキャプテン・カバシマの功績を記念するものでした。
ワラシホ村はコラカからボネ湾岸に沿って約 90km 北方向にいったところにあります。
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