セレウェス滞在記(4)

 

永江 勝朗

knagae@topaz.plala.or.jp




第9話 センカンからスングミナサヘ

DKW

 ジャラン勤務を解かれ、センカンに戻ってからの2カ月ほど、オートバイであちこちの出先ヘ行く用を云いつけられました。オートバイはDKW(ディカーウェイ)ドイツ製、今思えば125ccほどのものだったでしょう。でも調子が良くてパレパレからラッパンに向かう丘の直線道路では94kmを出しました。運転を誰かに習ったか覚えはありません。当時は行き交う車は皆無で、いつも道の真中を我が物顔で走っていました。

 センカンには電話がなく、電報があったかどうか、記憶はありません。急ぎの用は私のオートバイが重宝されたのでしょう。郵便業務は機能が回復、センカン滞在の頃何通も国に手紙を送っていますが、発信月日、発信地の住所を書いて良いことになっていました。(上陸当初の住所は「呉郵便局気付セ45セ42」を使い、切手はなく「軍事郵便・検閲済み」とあります)

ワタンソッペン

 センカンの隣りのソッペン分店は、南西40キロの処でした。安田さんが主任として赴任していました。私の行った時にはもう住宅を構えていて、そこに何日間か泊まりました。安田さんは南洋群島の経歴は長い40代の方でしたが、マライ語はこれからでした。でも歳の功かもう仕事を始めていました。

 ここヘオートバイで行く途中雨にあい、顔を直撃され走られなくなって民家に避難したことがありました。しかしその後防空眼鏡はついに入手できませんでした。ソッペンは水も豊か、緑の多い落ち着いた街です。管内も肥沃な水田地帯が開けていました。前任地ジャランのような乾燥し、荒漠とした処は見当らないようでした。

ホールドアップ

 1945年9月、私は現地招集で兵隊生活をしていましたが、敗戦後次第に規律の乱れ出した兵舎生活を敬遠、会社に呼び戻して貰いました。 マカッサル・マロス・パレパレと転々とした後、当時ソッペン郊外にに出来た「居留民収容所」に入って過ごしました。そこへカウボーイハットを斜めにかぶったオーストラリア兵が2度も襲来、自動小銃を突き付け、めぼしいものを片っはしから召しあげるのには閉口です。缶詰、中国酒などがやられました。

 11月スリリに南セレベスの居留民が入る収容所ができ、そちらに合流することになり、自治生活が始まりました。スリリにはそんな兵隊の来襲はありませんでした。

ソッペン再訪

 戦後2度目、1996年のセレベス訪問の折、タナ・トラジャの帰り途、連れに頼んで、ラッパンからまっすぐ南下ソッペンに寄りました。 センカンに行くのは無理なら、せめてソッペンにはと思ったのです。 ソッペンは当時のたたずまいが残り、好ましい街でした。ルママカン・スダップで遅い昼食をとりました。ナシゴーレンが美味しかった。邦人の「寄せ書き帖」がありました。 その時知ったのですが、ソッペンは南セレベスでは珍しいキリスト教徒(カトリック)の多い処になっていて、昔オランダのコントローラ(監督官)のいた丘の上に、今はキリスト教会が立っているそうです。

センカンと阿南司令官

 戦争末期、モロタイ、ハルマヘラ方面にいた陸軍は、アメリカ軍の反攻によりセレベス島に撤退しましたが、食糧生産の乏しいマナドなどの北部を避け、全員殆ど徒歩でセレベス島中部に撤退しました。マリンプンに飛行場を造り、トラジャからセンカンにかけ、兵を展開させたようです。司令部はセンカンに設けられ、司令官は阿南将軍でした。この方は戦争末期最後の陸軍大臣となり、敗戦が決まった後自決したことで知られています。もちろん当時 現地ではこんな事情は一切知らされず、戦後随分後になってセンカンとの縁も知りました。

パレパレ

 会社は船着場近く、東京出身の小池さんが主任、ジャワで働いていた吉川さん方がスマートな事務所兼宿舎を構えていました。前の海は静かで向かいに緑濃い島が見えて美しい港でした。私が呼ばれたのはピンランのスリリ(後の居留民収容所)に野菜の直営農場を作るのに担当していた五木田君が入院したので、当分代わりをやれと言うことです。五木田君は42年7月同じ船で来た仲間です。パレパレの街の印象はほとんどありません。ぶらつくほど滞在しなかったのでしょう。

壁の花

 パレパレ滞在中、宿舎を会場にダンスパーティの催しがありました。日本人は私達5、6人、後は従業員や家族など30人ほどの会合でした。ダンスはマカッサル上陸当時に少しやったのですが、残念ながら覚えきれないでいました。次々と出て踊ります。誘われもしました。でもついに壁の花で終わり、内心とても悔しい思いでした。その時見た小学校低学年の姉と弟の踊りの楽しくきれいな姿に感動した覚えがあります。音楽は生バンド演奏だったようです。

事故

 パレパレの郊外でバイクで自転車を引っかけた事があります。幸い相手に怪我はありませんでしたが、市役所の役人だったのでその場の示談とはならず、市長の牧野さん(三井物産出身)の処へ出向き、謝って勘弁して貰いました。

ピンラン

 パレパレの北20キロにある街です。やはり緑に包まれたきれな処でした。女性のラジャー(首長)にお会いしまた。40代のきれいな人、サロン・バジュ姿でした。泊まったのはラジャー邸の向いにあったパッサングラハンです。
 清水組の若い建築技師と知り合いました。製綿工場を建てるとのこと、ピンランの西の郊外現場を見に行きました。パッサングラハンの食事はセンカンより大分上手、始めてポテトチップスを知りま した。美味しい・・じゃがいも主産地の北海道で、当時はまだその調理法は普及していなかったのです。

スリリ

 街から農道を10キロほど東に行った処に農場がありました。辺りは一面椰子林、近所に人家は見当りません。道に並行した草ぼうぼう数ヘクタールの荒れ地、そこを耕して畑にするのが命ぜられた仕事です。毎朝オートバイで通いました。農夫が何人か来て開墾作業をしていますが、なんとものどかな進行ぶり、さっぱり捗っていません。何日後かに水牛を手配、今度は少し仕事が見えて来ました。農場の入り口に丸太を立てて「スリリ農場」の看板を掛けました。そんなことを何日やっていたのでしょうか。そこへ「すぐマカッサルに戻るように」指示がありました。1943年6、7月のことでしょう。それから2年後の1945年11月このスリ リが「セレベス居留民収容所」になり、私もそこに戻るとは夢にも思わないことでした。(ここの滞在は多分短時日の滞在だったのでしょう。この農場の先何キロか行くと、温泉の湧く処があり、さらにその先には、戦後に1万人前後の陸海軍兵士の収容所の出来たマリンプン大平原=砂漠があるのですがそれを知らずに過ごしたのです)

給料と費用

 こうしてあちこちを移動、宿に泊まり、どこかで昼飯も食べたりしていた筈なのに、その費用をどうしていたのかまるで記憶がないのです。タバコはのんだけれど、酒は知らなかったし、色気もまだ無かったのでしょう。生活費用はそんなにかからなかったと思いますが、自動巻き時計を売りつけられ、とても欲しかったけれど買えなかった覚えがありますから、余り余裕はなかったようです。

スングミナサ・骨は拾ってやる!!

泳いで帰るのなら・・

 43年6月、私は満20歳になりました。日本にいたら「徴兵検査=兵隊になるための身体検査」を受ける年齢です。どうしたら良いか。一緒の船千早丸で来た同年の石井君と相談しました。「内地にどうしても帰らねばならないか・・」この頃には、来る船、戻る船の多くが、途中で撃沈されていると耳にするようになっていました。もともとは兵隊になりたくない2人・・でもそう表には言われない。恐る、恐るマカッサルの和田米穀課長に申し出ました。「私たちは徴兵検査の年なので、帰らねばならないのですが・・・」 課長は言下に、私達の本心を見透かしたように「泳いで帰るのならいいよ・・」それで話は終わり・・ホッと安心したことを覚えています。

スングミナサ赴任」

 7月にはマカッサルに戻っていました。乾期の最中です。マカッサル市近くで分店の無かったのはスングミナサだけでした。それと言うのもマロス・パンカジェネなど北の米作地帯に比べ、スングミナサからタカラル辺りは地形の関係からか、雨量は少なく水利の便も悪かったせいか、米の低位生産地帯でしたから、米集荷は期待出来ないので放って置かれたのでしょう。しかし会社は南セレベスの米の需給統制機間でもあったわけですから、軍需の外に民需用も供給する任務もありましたこの頃分県監理官(コントローラー)が配置され、そちらから分店設置の要請が強くあったのだろうと思います。その分店新設の任務を私に与えたのです。セレベス滞在は1年になっていましたが、20歳になったばかり、他に適当な人がいなかったのでしょう。指示したのは和田米穀課長です。「大変だろうが自分の思い通りやって見ろ・・。失敗してもいい、骨は俺がいつでも拾ってやる・・」云われて勇躍飛び出しました。この時の言葉は強く心に刻まれ、後に私が後輩に同じ言葉で新しい仕事に送りだしたことがあります。
 マカッサルからスングミナサに入ると、街の入り口にちょっとした商店街があり、その先道路の左に大きな並木に囲まれたサッカーコート、それを前にゴア首長(ラジャー)の大きな木造の屋敷があり、道路の右に広い緑地の中に監理官事務所・公宅がありました。(マリノに行く道は、首長邸の奥にバイバスで設けられていました)当面は分県監理官官舎に同宿させてくれました。破格なことでした。彼の厚意もあったのでしょうが、まだこの街に日本人はほとんど住んでいなかったので、広い官舎に監理官1人で暮らすのは心細かったのもあったでしょう。都会的でスマート穏やかな方でした。邸宅の離れの1室が提供されました。いつも食事を共にして様々なことを教えて頂きました。彼は灯油を熱源のドイツ製の冷蔵庫を持っていました。アジア、アフリカの僻地に向かうヨーロッパ人向けの品だったようです。でもスングミナサは電化されていたように思います。

監理官の交替

 分店を作る準備は進んでいましたが、その最中(さなか)監理官の移動があり、今までの楽園は一転する事態となりました。新監理官は中セレベス・マジェネでらつ腕を振るい、マカッサル隣接のスングミナサに栄転人事で来たのだそうです。岐阜県の警察官出身40代、若年の私の目から見ても油断のならない意地悪そうな人でした。もちろん即時私は官舎から退去させられ、後には彼がマジェネから連れてきた若い美人のバブ、実は彼の南妻が入ったのです。それからの私は生まれて始めて「いびられる」経験を毎日のように繰り返すことになりました。
 彼行政官の立場から見ると、私の仕事「米を集め」は、管下農民にいささか強制を要することなので、それを若輩の私がやろうとしているのは、見ていられなかったのもあったのでしょう。

故郷への手紙

 この頃書いた5通の便りを要約、当時を偲びます。

8月の便り

事務所と住宅

この便りを書いているのは、住いを兼ねた事務所、やっと最近住むことができるようになりました。店の前をインドネシア人がノンビリ歩いています。華系人たまに邦人も通り過ぎます。子どもも沢山います。子どもはもちろん殆どの人は裸足で暮らしています。靴をはくのはごく一部の人です。きれいな娘さんもみな裸足、ちょっと幻滅です。

 頭の上に買物を載せ、右手で赤ん坊を腰に抱き、左手でサロン(腰布)をたくし上げ、日傘をさしている婦人、驚いたことに口が動いていました。こちらの女の人の服装は、バジュ(上着)布地を二つに折り、首の出るだけの穴をあけ、あと着物の型に切って縫い合わせたもの、下はサロン(大きな袋の下を抜いたようなもの)で、これなら私達にでもできそうです。

 事務所は大通りに面した2階建て、下が事務所のある広いコンクリートの土間、2階も同じ広さの部屋、階下の後ろに台所、マンデイ(水浴び)場、トイレ、ジョンゴス、バブ(下男、下女)の部屋があります。店の前には小さな木立と飯屋があり、朝のコーヒーを始め、食事はそこから取っています。普段朝コーヒーだけ、これでボーっとした眠気も覚まします。田舎の店ですから店は汚いけれど、コーヒーの味は上等、すっかり味をおぼえてしまいました。

従業員

 店の従業員は3人、事務兼外まわりは華系のホンセン、10時頃マカッサルから出勤します。事務のワハップはインドネシア、今日はマラリアで休み、他にハチローと名付けた給仕16歳、かいがいしく紙のせいりなどしています。茶目っけがあって面白いのですが、時々エラーをやります。

プアサ

 今日、8月30日からイスラム教の戒律の「プアサ」が始まります。約1月間日中飲み物も食事も採ってはいけないのです。この月中結婚式はできないので、昨日ぎりぎりまで式々で大変でした。今までもインドネシア人はお祭りだ、何だで休むことも多かったのですが、この月はもっと大変です。何と言ってもお腹に物が入っていないのですから、働けるわけがないのです。住民の5割は実行しているとのことです。1度オートバイにインドネシアの米集荷人を乗せ、村回りをした時のことです。夕方になって突然彼は「ちょっと下ろして下さい。お詣りしたいのです」道端の民家から敷物をかり、路傍で夕べの礼拝を始めました。それは辺りの私達を全く意識しない敬虔な祈りでした。彼らは宗教心の薄い私達には到底及びもつかない厳格さで、戒律を守っているのです。

オースチン

 官舎を追い出され、急いで入ったのが「マリノバイバス」の西側、竹林の中平屋の一軒屋、柱も壁も皆竹でできていました。ここに住んだ頃、どんなルートで入手したか忘れたのですが「オースチン」を自分で乗り回していました。運転しやすい車と言う印象でした。この運転も誰に習ったと言う覚えがありません。幸い事故は一度もなかったようです。店を構えた頃は小さなバイクに乗っていました。

10月中旬の便り

兵役

 最近の陸軍の兵役法の改定で、こちらで兵役に服するようになりそうです。もしそうなったらこちらで入隊したいと思います。

家事従業員

 最近の身辺のことを書きます。前の便りの後、従業員を補充しました。 ジャワ人の下男(ジョンゴス)下女(バブ)夫婦が住み込みで入りました。子供が二人います。仕事は部屋掃除、私の洗濯、食事材料の買い付け、その他の雑用です。食事調理は別にコックを雇ったので、もう心配いりません。他に外回りの掃除番もいます。コック・庭番は土地の人間通いで来ます。

事務所従業員

 華系人の倉庫番・看貫(かんかん)係を頼みました。米を買い付ける準備です。この他やはり華系の運転手も雇いました。これで営業態勢は十分になりました。

私の体重

 ただ今15貫800匁(60kg弱)ですが、別に異常はありません。しごく健康です。

セレベス新聞

 マカッサルで日本語の日刊新聞が出ていて、毎日配達されましす。小説も載っていて、日々(毎日)新聞系統のようです。タプロイド版1枚2ページ切りですから記事は少ないです。でもニュースはラジオで聞いて、新聞は毎日のように載るセレベスの歴史、民俗紹介などに興味があってそちらを読んでいます。スングミナサのラジャー・ゴアが明治の末期までオランダ支配に抵抗したとか、南セレベスの3大ラジャー家の由来も知りました。ラジオでブーゲンビル島のことを知りました。戦局はただならない事態になってい るようで、感奮1番しなければなりません。

ソンコとサロン

 昨夜は自動車の故障で村(カンポン)に泊まりました。久しぶりにサロンを巻き、ソンコ(黒い帽子)をかぶりました。夜着代わり、センカン以来のことです。ソンコは馬の尻尾の毛を編んだもの、サロンは茶色で絹布でした。郡長は「良く似合う」とほめましたが、ふあっと楽な服装で、長ズボンよりずっと涼しく外見も悪くありません。私もサロンは持っています。ソンコはトルコ帽より少 し浅く、普通はラシャ、ビロード地で作ります。高級なものは植物繊維で金銀の糸で飾り、4、50円(ルピア)もするそうです。この地域はマカッサル人の居住地、言葉はマカッサル語を使います。少し勉強しているところです。

ニホン語学級

 スングミナサから16キロほどの田舎で、ニホン語学級の先生を勤めています。これから出かけますが、月・木・土の3日、午後5時から1・5時間、生徒は学校の先生、部落長、郡長、役場職員などです。ニホン語講座とは言え、専門家ではないので、ジャランでもそうだったようにいつも文化漫談になってしまいます。ちょっとした労働ですがマライ語で1時間半、吾れながら良く話せるようになりました。アイウエオをやって、数の数え方、12月の名も終え、今日は曜日の名を教えようかと思います。こんなことで時間は潰されますが、意義のあることなので、出来るだけ続けたいと思います。

マラカジ高原

 2、3日前山巡りをして来ました。ロンポバッタン山(標高2871m)の南側で、前に行ったマリノ高原と似たような高原です。ニセコ(北海道の山、1300m)の高さ位まで自動車で行き、それから先は馬に乗って進みました。当地は相当の高地まで米作、野菜栽培が行われ、その調査でした。雲に入いると10m先が見えなくなることもあり、寒くてカゼをひきそうでした。晴れると素晴らしい景色です。10km余り続く大斜面、一面雛段のような田圃(たんぼ)が拡がっています。空気は澄んできれいです。雨が上がりもっと先山麓の家々、木の1本まで見えるようでした。気温は日本の秋、爽やかです。すすきがあり、花も咲き、野原を渡る風の音、とても詩的な美しさに充ちています。下界は太陽がギラギラ光り、どぎつい色彩、酷暑に包まれた世界、大変な違いです。

パッサルマラム

 ただ今「パッサルマラム」の準備で多忙です。夜市と訳すけれど実際は日中もあり、共進会・・小さな博覧会のようなもの、公けの賭博場も開設されます。会場に建つ1軒を借り南興(NKK)も出品するつもりです。バンドを編成し、送って頂いた楽譜を使って華やかにやろうと思います。

退去

 手紙にはこう書いているけれど「パッサルマラム」の企画を私が実施した記憶がないのです。多分これをやる頃は、分県監理官との軋轢がいよいよ高くなって、マカッサルに引き上げたのではないでしょうか。セレベスに上陸して間もないが、社会経験のある30代の加来さんと交代、引継ぎをした覚えがあります。監理官と顔を合わせたのはほんの20回程度だったのでしょうが、その顔、挙措動作は60年近く経った今もはっきり覚えています。余程こたえていたのでしょう。

1944年正月の手紙

 毎日雨が降って、蛙が賑やかです。これは内地の食用蛙くらいの大きさで物すごく、腹に響く大声で鳴きます。マカッサル事業所米穀課に戻りました。暮れにはここの日本人から注文をとり、会社で餅を搗いて配給する手伝いをしました。餅米はここ産ですが、立派な餅が出来ます。今年はいよいよ兵士として戦場に赴く日が有るかと存じます。その日まで、丁度お年玉のように送り届けられた農業の本17冊を読むことにいたします。
 今年から「雇」から「見習社員」になりました。社員の一番下です。給料・51円、外地手当21割(107円10銭)僻地手当15円30銭、積立て10円、食費15円、海軍機献納資金20円、留守宅送金を差し引いて手元には80円くらいが入ります。

カンピリ余話

 スングミナサ郊外カンピリに太平洋戦争中「オランダ人婦女子収容所」があったことは以前に書きました。「南興(南洋興発梶j会便り」にカンピリにまつわる話がにありました。雲母の話 は松江宏次氏のレポート要約です。

雲母

 雲母は電気の絶縁体として、通信機には欠かせない重要材料でした。中部セレベス、トミニ湾に突きでた半島の南に散在するバンガイ諸島、その一つラボラボ島に雲母が埋蔵されていたのです。南洋興発鰍フ子会社「南太貿」にそこで「雲母採取」することを命ぜられました。マカッサルからこの島に行くには、まず陸路をポソに達し、そこからは海路を辿り、4、5日がかりで到達する辺鄙な処でした。また島はマラリア、デング熱の巣で、ジャングルに猛獣こそいないがニシキヘビがいたりして凄まじい天地でした。
 採掘は試行錯誤の末、成功したのですが、それを飛行機で日本に送るには、こちらで原石を剥離サイズごと分類する必要がありました。この雲母を剥離、分類する作業がカンピリ収容所で行われたのです。作業には収容所の婦女子1、500名があたりました。作業への報酬は布生地、文房具類でした。彼女たちが所内平常のスタイルは半袖、短パンだったと聞いていました。作業の監督に当たった南太貿社員たちはは、逞しい白人女性集団を前に、大いに圧力を感じ、気を使いながらろくに話も出来ない緊張した日々を送っていたと云います。作業は終戦まで続けられました。敗戦となって地位逆転、彼女たちの従者のように社員は懸命に解放を手伝って仕事を終わったとのことです。
尚、雲母のマカッサル渡しの値段は、小さい規格で1トン5万円、大きいものは百万円と言う破格のものでした。(当時私の給料50円)

空襲

 マリノ南洋興発農場に勤務した松谷氏のレポートです。敗戦間近「敵上陸近し」と在留邦人は次々と現地招集されました。松谷さんは1945年6月1日、陸軍の名で招集され、海兵隊の軍服が与えられ、海軍が教育すると言う変則的な兵隊になりました。1カ月の訓練の後、陣地に配置されました。
 8月10日、陣地から川をへだてたカンピリの収容所に、突如空襲があり焼夷弾が投下されました。丁度昼食時でしたが、そこの兵隊たちはすぐ救助に向かいました。焼夷弾の数は大変多く、1坪に4、5発もありました。(乾期だったので川を渡れたのでしょう)私達(日本兵)が救助に駆けつけたのを知って、敵機は機銃掃射をして来ましたが、幸い皆無傷、建物の一部が焼けただけで済みました。婦女子にも死者は出なかったようです。この収容所の空襲襲撃事件は、戦後映画化され、松谷さんは見にいった記憶があるそうです。

註 私はこの空襲を知りませんでした。
私が召集検査、即入隊したのは8月1日、場所は松谷さんと同じだったと思います。スングミナサからマリノに向かう道の丘になった左側のきれいな森の中に訓練兵舎がありました。
ここからカンピリは近いはずですが、8月10日の空襲は全く知りませんでした。それにしても、戦後を考えマカッサル市内高級住宅街は爆撃目標から外した程なのに、カンピリがオランダ人婦女子収容所と知りながら、この時期空襲したのは何故でしょう。(続)