セレウェス滞在記(5)

 

永江 勝朗

knagae@topaz.plala.or.jp



(注:2002年5月23日スケッチ「マロスの一家」追加しました。)

第10話 マロスの歌

マロスへの誘い

 マロスはマカッサルの北40キロにあります。私がここに赴任したのは1944年4月、穀倉マロスの雨期が明け、稲が実った頃でした。

 前任地スングミナサで、監理官にいじめられ、クシャクシャになって自信を無くし、マカッサルに戻り、米穀課で憂うつな日を過ごしていました。ミスター・ホンたちとの交遊は復活、雨の降る夜もティガローダーを繰り出し、街を徘徊しました。そんな時、近くに爆弾が投下され、肝を冷すこともあります。アメリカ軍の反撃が始まったのです。

 渡航3年目、間もなく21歳になる乾期の近い頃です。マロス地区支配人の刻仙李(ロォシャンリィ)から「マロスに来ないか・・」しきりに誘われたのです。シャンリィは私が米穀課に入った頃から、事務所に出入りし顔見知りの男でした。福建省の移民一世(新家=シンケ)30歳前後、パジャマを普段着にし、中国なま りの下手なインドネシア語を使いながら、物おじしないサバサバとした明るい人柄は、事務所の誰からも好感を持たれていました。

 マロスはパンカジェネ・セゲリーと並ぶ南セレベスの代表的穀倉地帯です。華系の大きな精米所倉庫もありました。当社はこの権益を接収する形で、米の集荷事業が始めたのです。それで従来の華系経営者に替わり、ブローカーだったラォシャンリィが抜てきされて現地統括者になっていたのです。
 良質米(パンダ種)を年間3千トンを集荷する会社の一大拠点でした。マロスには、私がスングミナサに店を出す以前に、分店が出来ていました。分店主任の勝田さんは、30代の人で、背の高い好男子で、この頃彼は中央セレベスに近いパロポに転勤し、マロスに日本人がいなかったのです。シャンリィの再三の誘いに私は「ここで出直しするか・・」決意、和田米穀課長に「マロスに行きたいです・・」申し出ました。
 「よかろう!」やはり骨を拾ってくれました。

『ひと言』
 米の等級には「ラパン」「パンダ」「バッカ」と別れていました。「ラパン」「パンダ」は日本米の食味に匹敵しました。 特に「ラパン」米は寿司米として使われたほどです。マロスは「パンダ」米の産地でした。

仕事

 精米工場、倉庫はマロスの街外れ、パレパレに通ずる自動車道路に沿った曲がり角の広い敷地にありました。工場には巨大なドイツ製ディゼルエンジンと精米機が据えられていました。工場の一隅に事務室があり、2人のインドネシアの書記1人の娘が伝票・帳簿を扱っていました。シャンリィの直属の外回りには、適当に忠実で、抜け目のない華系人を含む幹部2,3人がいました。
 日系2世女性と結婚していて、捕虜収容所行きを免れた、恰幅が良く気のよいディゼルエンジン技師、オランダ系ダブルス、ゴールデンホーフもいました。工場には常時2,30人の労働者(クリーと呼ばれました)が働いていました。この精米機はドイツ製なのに、籾からいきなり白米に仕上げるスグレものですが、籾を2階の注入口に上げる仕掛けがないので、麻袋に入った籾を担いで階段を上がって運ぶ人が必要だったのです。

 マロスの東方には山が連なっていますが、すべて石灰岩でできていて、裾野が無くいきなりテーブル状山地が始まります。麓から一面広大な平野が海まで続いています。平野の真中を南北にパレパレに通ずる国道が通り、東西にはマロス川に沿って、バンテモロン(滝)山地に直線で行く砂利道があり、先は険しいジグザグの山道を上ってチャンバ平地、更にワタンポネ、センカンに向かう道になりました。チャンバ街道に沿い、バンテモロン(滝)とマロス川を水源に大きな潅漑溝が設けられ、支線はわが家の近くから、更に海に向かって伸びていました。この潅漑溝のお陰で、マロス川の北側一面は広い豊かな水田地帯となっていたのです。

 マロス川の南側は緩やかな丘陵が拡がり、その一角に海軍の「バンダイ飛行場」が設営されていました。山側にはマカッサルからパンカジェネ山地の鉱山に通ずる鉄道建設が行われていたようです。こちらの土は赤く、表土も浅く、水の便も悪いので畑作も十分ではないように見えました。

 米の集荷の仕事は、ロウシャンリイに任せ放し、私はマロスのシャッポ(帽子)役を演じていたら良かったのです。シャンリィが「顔を出してくれ」言った時、動くのです。それでも、大抵午後は暗くなるまでオートバイか馬で田舎を歩きまわりました。始めての道をトコトコあたりを見まわしながら行く、仕事よりもそうすることが好きだったのです。
 帰りは大抵「日が入った」頃でしたから、家に着くのは7時過ぎでした。仕事はすべては順調に進んでいるようでした。ここにも電話はありませんが、毎日何台かマカッサルから精米を運ぶトラックが来ましたので、それで支店との連絡は付いていました。要するに順調に米がマカッサルに続けられたら良かったのです。

『ひと言』
 精米工場は、現在のマロスに入る橋を渡り、チャンバ街道との十字路の角地にありました。それらしいものは今は見あたりません。

住まい

  マロスの街全体も森の中にありました。村の中心(精米工場)からマロス川の堤防上の道を西に100m行くと、右に華人 の煉瓦作りの古い社(やしろ)があり、その隣リT字路の角に私達の家があリました。社の辺りに大きな木(ガジュマルでしょうか)が茂って、蛸の足のように枝を地表に落とし、厚い緑のジュータンをたらして、他の世界と切り離していました。道は珊瑚礁の砕片が敷き詰めたもので、ゴツゴツとしてとても歩きづいものでした。
 家は道の面し、少し低い処に建てられ、家の向こう側はマロス川までクラパ(椰子)林が続いていました。本道路を通る自動車の音も、全く聞こえない静かな処です。 家の骨格は木で、外壁は板張り、中仕切りは板と竹を割った板状のものでした。玄関から応接室があり、奥に大きな寝室があり私用、小さな寝室が二つ続き、そこ から外に出て、回り込むと「マンディ場、トイレ」がありました。トイレはコンクリートの床に溝が設けてあるだけの、田舎ではよくあるタイプです。
 応接室の右奥は食堂、続いて内井戸のある厨房、ジョンゴス部屋がありました。「39日の航海」を共にした、千葉出身野菜栽培指導の石井君が寄留していましたが、程無く新任地に去って行きました。

シモン

 家にはカシモン通称シモン、真面目で40年配の色の黒い下男(ジョンゴス)と妻(バブ)が付いていました。2人は最近夫婦になりました。勝田さんが仲人になったのだそうです。シモンはジャワ人、少年時代からみなし児、長いジョンゴス暮しの間ずっと独身でした。
 少し古いソンコをかぶり、白い折り目のついた長ズボン、白いワイシャツ姿で、どんな時もいささかも行儀を乱さず、微笑むと心から楽しい笑顔になりました。柔和で穏やかを絵にしたような人でした。用事のある時は必ずまず小さな声で「トゥアン=旦那!」とよびかけてから話し出しました。

 シモンは使用人の頭で、仕事は妻とともに家の中の掃除、食事の給仕、すべての買い物役でした。2キロ半径の村落で定期的に開かれる朝のパッサル(市場)に出かけ、その日の食品を買物篭に集めてきました。使用人は他にコック(コッキー)ヒンドゥー17歳女性、洗濯と水汲みなど外回りをする通いの男がいました。 勝田さんの残していった猿2匹犬2匹闘鶏3羽もいました。

 私1人のために4人の働き手がいるのです。セレベスに来て辺地の定住は3ケ処目ですが、ここの家族が1番多かった・・少し戸惑いました。でもここは交通の要衝で意外に不時の来客が多かったのです。それも昼食時です。客が3,4人来たりすると、この人数でもてんてこまいになります。20日1ケ月、日が経つにつれ、暮しに慣れ、毎日がとても楽しいものになって行きました。4人の給料は会社持ち、シモンは二十円、妻は十円でした。

読み書きで昼夜逆転

  仕事は直接手を下すことも無く、直属の監督者もいない気安さと落ち着いた暮しで、私の奇妙な暮しが始まりました。子どもの頃から「宵っぱりの朝寝坊」でした。床の中で本を読むくせです。今は何のお咎めもなく再開しました。毎夜夜半過ぎまでそんな時間になりました。

 読み物は、その頃マカッサルに出店した本屋から「中央公論」「改造」など難しい本を10冊ほどまとめ買したのを片っぱしから読みました。始めは面倒で歯が立たなかったのですが、段々呑み込めるようになりました。マライ語辞典はあったけれど国語辞書は持っていなかったのです。「セレベス新聞」の3分の1が文化欄で、セレベスの歴史、地理、民話などがあって、随分愛読しました。父に送って貰った「古事記」私が本好きと知って、マロスの知人は色々の本を借してくれました。中に藤村の「夜明け前」ナチス・ドイツの聖典「土地無き民」などがあります。
「土地無き民」は何部にもなった大冊で、懸命に読み通しました。でも今は主人公がアフリカのドイツ領植民地から敗戦後故国に帰り、巷の中に消えて行く最後のシーンだけがうっすらと記憶に残る程度です。

 その内、やたらに書くようになり、寝る時間がどんどん遅くなったのです。どんなことを書いていたか、召集された時は、厚さ10cmのノートを残していました。1月半たって戻った時、わが家には前線から逃れた社員が数人避難していて、この人逹がノートをきれいさっぱり1枚残さず焼き払っていました。涙が出るほど残念でしたが、私が再び戻るとも思わなかったでしょうし、自分達が生死の境を彷徨している時、愚にもつかないことを長々書いているのに、腹が立ったかもしれません。

 戦争の終わり頃1度だけ「公有地借地申請書」を独りで仕上げたことがあります。マカッサル近くに米倉庫を設けようとしたのです。許可は出たけれど、実施出来ませんでした。申請書のお了いの言葉が「奉願候也=願い、たてまつり、そうろう、なり」で結ん だのが記憶にあります。

コーヒー

 朝10時頃にコーヒーを飲みます。コーヒーは始め応接室に置いていましたが、ベッドのティーブルに置かせました。シモンの長い間のしつけでは、主人の寝ている部屋に入りたくないらしく、気が進まない感じでした。コーヒーで目を醒まし着替え、精米工場倉庫を1まわりするのが午前の日課でした。コーヒーはこの近くの山地で採れるものでしょう。大きな平鍋でガラガラと煎って、粗く粉にひいたのを土瓶でグラグラ煮立てます。街の店では釜で煮ることもありました。余り熱いと皿にあけて冷まして呑む習慣もあります。ほんの少し砂糖を入れます。余り濃厚だと先に黒糖を口に放りこんで飲むこともありました。
 シモンは自分の決めた朝の日課を崩さないから、コーヒーは大抵冷たくなっていました。底に滓の溜った上澄みを飲みます。飲めば大抵眠気は醒めてしまいます。

食事

 私の食事は昼食からで良かったので、普段はのんびり調理しているようでした。泊まり客があると「朝食は・・?」その朝だけは少し忙がしそうです。午前工場を1回りして戻ると、昼食めがけて来る旅の途中の人もいました。マロス駐在の台湾拓殖や監理官事務所の若い事務官、農業指導員、食費は自賄いなのでたまに食卓をのぞく気の毒な位粗末な食事でした。若い食い気の多い人逹ばかり、親しくなるにつれ時々食べに来たり、米運搬トラックの海軍下士官もいて、1人で食べることはほとんどありませんでした。

 献立はセレベス式西洋料理、昼も夜も余り変わりありません。でも若くて健康だったから何でもうまかった。 右手にスプーン、左手にフォーク、ナイフは使わないのがオランダ植民地スタイルの作法だそうです。ナフキンは必ず胸のボタンにかけひざに広げる。各自が広い皿を手許に置いてティーブル中央の料理、ご飯をてんでに取って食べます。インドネシア人は右手の指で食べますから、料理はみな賽の目に刻み、御飯と混ぜやすくしています。ドロリとした料理はなかったようです。

 にわとりを椰子油で揚げ、カレー味で軟らかく煮たもの、胡瓜をバラバラに切った酢のもの、魚のから揚げ、煮もの、誰が教えたかカレーライスもメニューにあったようです。味噌、醤油は全く手に入りませんでしたが、全然不自由とは思いませんでした。若かったせいか、土地の味に順応していました。野菜の切れた時期のカンコン(水草の種類)だけはどう料理しても旨くならない、スープにしてもほとんど食べられませんでした。

 果物は季節季節で楽しみました。ピーサン(バナナ)パパイヤ、ナナス、ザボン、マンゴ、ナンカ、特に雨期の終りのドリアンは忘れらりない味でした。

 森の中は日が沈むとまたたく間にくら闇になります。マロスに電気はありません。食卓には竹ぼうきの柄くらいの小さいホヤとコーヒー皿くらいの反射版のついた灯油ランプを2つ置きました。 普通の家は椰子油の「灯心」でしたから、これだけで特権の部類だったでしょう。夕食にはソンコをかぶり、パジャマの上着にサロンを付けたくつろいだ服装になりました。
 シモンの作ってくれた白や赤のもち米のバロッ(ドブロク)透明で強い酒、結構な味でした。大事にしていたグラスを使いました。それで1,2杯やると食欲が出るとわかり、バロッを切らさないようシモンに頼んでいました。食事の後椅子にかけ緑の樹の間から、青い空を眺めたり、降る雨の音をだまって聞くのも良い気持ちでした。戦争の終りの頃インフレが進み、月の食費は150円以上になったのですが、私の負担は月15円だけ、あとは会社持ちでしたので気は楽でした。

結び別れ

 シモンの妻は出産が近づいて実家に帰えり、シモンも通いになりました。1時わが家は私1人になったのです。処がコッキーのヒンドゥが泊まると言い出しました。寝室は私の部屋に続いて2つ あり、その1つを使うことになりました。 各部屋の仕切りは板張りか、バンブー(竹)を割った板1枚、暫くして2人は成るべくして結ばれました。これにはシャンリィ、シモンの差し金があったのかもしれません。

 こうなっても表向きは以前と全く同じでした。ニュースが統制されていたとは言え、戦争の前途に次第に絶望感が強くなっていました。自分の意志で来た処とは言え・・南海の地にこのまま果てるのか・・死ぬのはあまりにも早い・・はかなすぎる・・何にも残らない・・耐えられない思いがつのっていました。

 彼女はブギス人、小肥り、家は近所の森の中らしい。年齢はキラキラ(約)18歳と言うけれど、20歳以下には見えませんでした。普段ほとんど台所から顔を出しません。料理は上手でも下手でもないけれど、私達の口に合いました。ヒンドゥーは食卓のものを下げる時は出て来ました。料理を炊事場の入り口まで持って行くと、ちょいと残りりものをつまみ食いするくせがありました。ヒンドゥーは私1人の時でも、きっと3,4人前の料理を作りました。ちょっとした残りもので、家族中の食事は済ませたようです。だから急に客があっても、皿を増やすだけで慌てずに済んだのです。

 別れの時は予期していたけれど、慌ただしく来ました。私の兵役召集です。どんな別れだったのでしょう。それが全く記憶がないのです。互いに若かかったからか・・思い出せないのが、申し訳けない思いになります。1月半後、私が兵舎からマロスに戻った時、彼女は家にもういませんでした。

赤ん坊

 シモンの妻が45年始め頃、男の子を出産しました。もちろん彼の初めての子供です。可愛いいかったに違いありません。毎朝3人で現れました。健康で大人しく、いつもニコニコと機嫌良く、一家の中心になりました。私も仕事から帰って、裸の彼を抱くのが楽しみでした。現場で時には鬼のように言われもした私も、この子に接する時は気が安らいでいました。赤ん坊を抱いて食堂や炊事場をぐるぐる回ると、シモンはハラハラしながら微笑みは崩さず一緒について歩いたりしました。シモンの妻も、コックのヒンドウも一緒にあやしたりしました。

坂広栄君

 マロスで長く1緒だったのは坂広栄君、同年でした。彼は北セレベス・マナドの東方ハルマヘラ島・テルナテにあった南興系水産会社、沖縄「追い込み漁法」の漁師でした。ハルマヘラ島の北モロタイ島が米軍の空軍基地となり、そこから爆撃が始まって、島にいられなくなり、メナドから陸路歩いて南の私達の処まで辿り付いた人です。1944年暮ではなかったでしょうか。

 奄美大島の生まれ、沖縄・糸満の漁師連でした。背は低いががっしりした体格をしていました。良い仲間になり、何をやるのも一緒でした。食事の時2人の故郷を話したり、ハルマヘラの魚取り、少年時代の沖縄の話を随分聞きました。苦労した生い立ち、追い込み漁法の苦しい労働などです。1945年5月兵隊となりました。後にスリリ収容所で合流、同じ船で引揚げたのですが、後の消息はつかめていません。

ジャランジャラン

 夕食の後月が明るい夜などロタン(藤)のステッキを持って2人で散歩に出ました。椰子がマロスの街を覆っています。大きく枝を張った円頭樹も処々に青い茂みを作っていました。木の葉一枚一枚を地面に映し出す、南の国の明るい月の光、街の中心1キロ程の広いアスファルト道、珊瑚礁の砕石を敷いた裏道を端から端まで、どこへともなく歩いて、月の夜を楽しみました。

坂田隆三郎さん

 坂田さんがマロスに見えたのは、坂君が召集された後ではなかったでしょうか。物静かで優しいスマートな方でした。東京出身、1943年西ニューギニア・マノクワリに赴任、戦況の悪化に伴い、44年6月21日同僚30人と共に脱出しました。後に「地獄のベラウ地峡」と言われた難所を、短い日時に無事突破、船を乗り継いでアンボンにたどり着いたのが7月17日だったそうです。(南興社員一行は、前1943年・前後3回9ケ月に及んだ「南興社員を長とした調査隊のベラウ地峡踏査資料」に基づいて行動出来たので、最善、最短距離を辿って地峡突破出来たのです)

 さらに坂田さんたち4人は、アンボンからジャワ行きの海軍輸送船に便乗しました。マカッサル港に到着寸前沖合で、飛行機の攻撃を受け船は沈没、泳ぐこと30分余りで幸い護衛していた水雷艇に救助され、マカッサルに着いたとのことです。しかし1人の方は船の中にいて脱出出来なかったといいます。(岩田武夫さんの手記・臆病者の参戦雑記から)

 坂田さんはマロスでは、こんな体験を一切話してくれなかったように思います。戦後仲間と「読売広告」社を興し 後に社長になられました。

『ひと言』

◎地獄のベラウ地峡 ニューギニア西部の地形を恐竜の頭に例えられます。その首の狭い部分がベラウ地峡で,広さは南北100km,東西北側で50km,南側で30kmです。この地峡の南北に500から1000mの3条に山脈が走っていますが、北に標高3000m、南には2500mの山脈があるので、東西両方向から雨雲がまとまって吹き付け、多量の雨を降らせ、全面熱帯雨林と沼沢地をつくっているのです。

 1944年、マノクワリにいた陸軍2万人は、近くのビアク島などを攻略され、補給路を遮断されたので、そこでの自活ができないと、2万の内1万5000人を7月1日ベラウ地峡を通って、西部に向かわせました。南興社員30名が出発した10日後のことです。当時陸軍には内容の空白な50万分地図しか持っていなかったそうです。(南興ベラウ地峡調査は、海軍命令によるものだったので、報告書は海軍に提出されましたが、陸軍に開示されなかったのです)

 その結果1万5000人の大軍は凄惨な飢餓、傷病地獄に遭遇、1月後に西岸に達した兵士は半数の6、7000人になり、さらに西岸に兵を養える食料がある筈もなく、戦後生還を果たしたのはわずか3000人に満たなかったと言います。(「南興会たより」から抜粋しました)

*戦後、上演有名になった加東大介の「南の国に雪が降る」は、この時マノクワリに残った5千人の兵士たちの物語です。

洗濯

 シモンに服装に比べ、坂君も私も行儀は悪かった。とりわけ私が悪かった、夜は一応きちんとしていましたが、昼は暑いのにかまけ無帽長髪、ランニングシャツ、半ズボンにサンダル、上陸時の訓戒はどこかに飛んでいました。若さにまかせ、体ものしのし使ったから衣類の汚れもひどく、けっこう毎日洗濯ものは出ました。雨期には食堂の一隅にびっしり、かけなければ間にあいませんでした。洗濯は通いの背のひょろりと高い人の良い男がやりました。年中半ズボン一つ、トイレ・マンデイ場掃除、水汲み、庭掃除、猿、闘鶏の世話は彼の仕事でした。

改造

 食堂の外の差しかけが暗いので、庭の隅に移しました。 風の強い時は吹き込みもあるけれど、食堂も玄関も明るくなりました。シモンの部屋と炊事場も改装、炊事場の床は煉瓦を並べただけで、コケが生えたぬるぬるがなくなりました。私と坂君は炊事場の井戸替えをし、まわりをコンクリートのモルタルでぬりました。屋根のニッパを取替え、小屋の竹の柱、竹壁も新しくしました。少し広くなりしっかりとなりました。外に出られない雨期の遊び仕事でした。

 乾期が近くなって広い庭が欲しくなりました。バナナが十本ほど生えている隣りの空き地を借りました。仕切りを取り払い、地面に砂を入れ、はだしでも歩けるようにしました。食堂から庭に出られるドアをつけました。家族や客は庭に気楽に出入りできて喜ばれました。

 (マロスの一家  1945年3月ころ)

母屋と少し離れたマンディー場のそばにザボンの木がありました。この木の実は買って来たのに比べ特別に変わってうまいわけはない筈なのに気になって「どんな色になる」「房はどうだ」などとシモンに尋ね、時々木の下に行き実を数えたりしました。食卓に上るザボンには色々の種類がありました。紫に近いのが多かったが、黄色もあり、房の細いもの、太いもの、皮も厚い薄い様々です。うちのザボンは紫の毛糸の太さの房が無数に付いた中くらいのもので、とれたザボンは普通砂糖をかけて食べますが、砂糖が次第に貴重品になったので、かけたりかけなかったりして1家中で食べ ました。

 庭にクラパ(椰子の木)があり、実を取るのに高さ10mの木登りは坂君と下働きの男が担当しました。坂君は陸路何百キロを歩くうちに、こんな芸も覚えたのです。クラパの若い実の白い乳色の果肉を食べたり、中の水を実と混ぜて飲みました。椰子の水は腹の中までサーッとする味です。

 早めに仕事を切り上げられた時、庭の猿をからかったり、闘鶏を眺めたりしました。その内に、庭に鉄棒も設けました。「兵隊には近々取られる・・」身体を鍛えることにしたのです。

爆撃・廃虚

 毎夜8時と12時にフィリッピンに近いモロタイ島から、マカッサル行きB24爆撃機の定期便がマロスの頭上を通るようになりました。1945年になってからでしょうか。遠くの爆撃音も聞こえました。「何・マカッサルには40粁もある。バンダイの飛行場だって10粁はあるんだから・・」なれるに従って、身の回りにだけ残されたいささかの平和を切なく楽しむ毎日になっていました。

 1度マカッサルの爆撃の跡を見に行きました。爆撃は中華街に限って行われたのです。中華街の建物はレンガ作りでしたから、瓦礫がるいるいと続いているだけ、わずかに浮浪者らしい人影が瓦礫の隙き間に見えました。中華街にあった会社事務所も、通った本屋も、友人の住まいも跡形もなく、事務所は森の中の住宅地に移転していました。

交遊

 我が家には雑多の職種のたくさんの客が出入りしました。半分はマカッサルから紹介された人でした。元大学の先生・元料理屋の主人・北海道で農業をやっていた人・柔道の先生・北海道出身の旋盤工など・・・。地元マロスでは三井農林社員、自称理論右翼、台湾拓殖の若い所長は「夜明け前」「土地無き民」を貸してくれ、チャンバの山の奥へ泊がけで連れて行ってくれました。

 台湾嘉義農林学校出の台拓社員翁さんたちとも知り合いました。嘉義農林は戦前「全国中学野球大会」でいつも台湾代表になる有名校でした。少し年長の同志社大出の台拓青年社員とも知り合い「戦争はどうなる・・・」何度も話し合いました。

 マロスの監理官高田さんを招いたことがあります。岐阜県警察出身でしたが、温厚公平に扱ってもらいました。この時は、シャンリーが船のコック時代に覚えた福建料理を前日から仕込んで作っててくれました。大きな瓜に豚肉、ねぎを詰めたものを軟らかく煮込んだものがメインでした。「旨い旨い」と食べ、シャンリーの持参の中華酒を飲んでもらいました。数多い客から聞く沢山の耳学問がありました。「大人になろう、大人になろう」精一杯背伸びを続けた少年は、少しづつ大人になって行きました。 (マロスの歌・続く)