第11話 続・マロスの歌
ラォ・シャン・リイ
マロスを語るのにラォシャンリィ(刻仙李)はどうしても欠かせない人物です。福建省出身の移民=新家、少年時代に故郷を飛び出したようです。年齢は30歳前後、すらりとした良い男でした。「私は商人、金もうけが趣味、金を溜めるのは手段だ。商いでなら何時裸にされても平気」と言っていました。1度だけ見せてくれた彼の財産は、みかん箱程の木箱に溢れるばかり詰まった金
貨、金製品でした。「これだけあればいつ戦争が終わっても、またどこででも商売を始められる」と云いました。
家族は中国人の妻と、インドネシア人の第二夫人に産ませた娘と三人暮らしでした。一家が食べるだけだっけなら、彼は造作もなく稼ぎ出せたでしょう。シャンリーは仕事では鬼になる処がありました。でもどれ程本気で打ち込んでいたか、若い私は正体は掴んでいなかったのではないでしょうか。
マロスは、毎年3千トンの良質米が集まる南セレベスの大穀倉です。彼は戦前、米の集荷と精米工場を独占してきた華系有力経営者に代わり、南興社員の籍を持ち、大きな買い付け資金と物資を自由に動かし、地区の数十人の米集荷人を統括する地位にいました。一方インドネシア人社会の政治の上で、階級の高いラウト郡長の親戚のダエンパトンボンを顧問的立場に据え、会社運営の大半を掌握、戦後に備え、このチャンスを利用、野心を満たそうとしていたのは、多分間違いのないことでしょう。
戦争中だから、一応私の部下と言う形になっていたけれど、彼にとっての私は何だったのでしょう。インドネシア人への抑えと、時々飛び込んで来て無理を言う日本人に対応する役目も、彼の期待の内だったのでしょう。
シャンリィは家の食卓の常連の一人でした。週に2、3度気の向いた時に来て「まずい、まずい」と云いつつ遠慮なく食べました。自分が以前料理人だったのを誇示したい処 もあったのでしょう。時々マカッサルで仕入れた「豚肉」を自分で料理し、豚肉を食べない敬虔なイスラム教徒の使用人たちの顰蹙をかっていました。そんな時以外は「トゥアン・シャンリィ・・」敬愛されていました。
シャンリィの娘は玉枝(ギョッシィ)小学三年生、少し舌足らずな甘えた声の主、色白でスラリと背の高い可愛いい少女でした。「後、五年もしたらマロス街道一の美人・・・」日本人仲間の話題でした。
彼は思い出したように、時々「トゥアン戦争は何時終わるだろう」聞いて、私を困らせました。敗線も間近かになった頃「戦争が終わるって本当か・・」と聞きました。敗色覆うべくも無くなり、私の兵隊入りも間近と気をクサラせていた私をガクゼンとさせました
そんな中、一生忘れられぬ出来事が起きました。1945年7月通知があって「8月1日マカッサルで身体検査、即日軍隊に入隊せよ」 徴兵命令です。私は22才になっていました。本州にいる人達より何年も遅くれて来た兵役です。別れの日、彼は3つのプレゼントをしました。1つは、お金を3千円、インフレとは言え、私の手当を含めた給料の1年半分です。彼は戦争の先のないことを決断、手元の「米買い付け資金」を回してくれたのかもしれません。
2つ目はタバコ、もう全く私達の目の前に出る事のなかった、ジャワ産高級タバコ「マスコット」を3カートンくれました。3つ目は、スイス製腕時計、中古とは言えこれも簡単に入手出来る物ではなかったのです。私の日本からの時計は各地を移転の間に、紛失、マロスでは持っていなかったのでしょう。彼はそれらの品の使い途を説明しました。「兵隊では上の者に可愛いがられなければ苦労する。タバコを使い物にしたらいい。金もいくら有ってもよいものだ。兵隊は時間で動くもの・この時計を使いなさい」私がこれから向かうのは死地・・、お互いもう2度と会うことはないのです。私はそれまでにこんな高価で、貴重な物を贈られたことはなく、又素直に受け取った経験もありません。「トリマカシ、バニャ・有難う」繰り返すだけでした。
9月半ば、私は図らずも再びマロスに戻りました。「シャンリイ1家は敗戦の直後、日本人に協力した報復を恐れ、行方知らずになった」とのこと・・。彼は日本の敗戦で「商売の賭けに負けました」でも「裸にはならなかった」のです。あの時、見せてくれたミカン箱一杯のお宝を活用、どこかできっと再起を果たしている」と信じています。
立場を代え、あの時私ならどうしていたでしょう。スケールの違う人間に出会っていたと思います。戦後、マカッサルに長期滞在した石井さんに、1家の消息を尋ねてもらったけれど、やはり全く行方が判らないようです。
マロスに行けたのは、和田米穀課長がスングミナサから敗れて帰って来た私の「骨を拾ってくれた」からです。 使うつもりだった私が、実はラオシャンリイに使われていたことも分かりました。セレベスで働いた3年間の大半は、身近に教えを乞う人のいない環境でした。若年の上、短い時間の中で、いつも「1人で考え、判断、実行する」ことを身に着けていたのです。成功、不成功、様々
な経験を交えながら・・
戦前南洋貿易鰍ノ入社、現地「旧南洋群島」に赴任した若い社員達は、早速離島売店に派遣されました。ほとんどは単身か夫婦だけで出向き、島民と交流し商売を覚えて行ったと先輩に聞いたことがありますが、私のおかれていた状況は正にそれでした。この教訓は、後の人生にどれだけ役だったか、私の生涯の指針を得た学び舎だったのです。後年ある仕事をすることになりました。1人の若者に「失敗を恐れるな。結果の一切は私が引き受ける。心配せずにつっ走れ・・」と言い、また1人は「彼は、この分野で自分より出来る。思うようにやらせ、私はそれに乗っかって見よう」両者共期待以上に働いてくれました。
人間は信頼され任せられると、元々以上の力を発揮できるものです。こんな若者の生きざまを見ているのもまことに楽しいものでした。
パッサル・マラム
スングミナサで出来なかった「パッサル・マラム」を、1944年夏マロスで参加しました。この頃はまだ空襲は始まっていませんでした。パッサル・マラムと言っても日中から始まります。開催期間は3、4日でした。入場料は取ったでしょう。行事一番の目玉は「公設トバク場」です。これに併設、博覧会的な展示をマロス駐在の企業に求めたのです。「NKK」の竹とニッパ屋根の小屋を建て、丁度届いていた「イセキ」小型脱穀機を数台並べ、脱穀作業の実演をしました。「日本農民の武器(スンジャータ)」などと書いた横幕を掲げました。
赤痢
1944年発病、病気の知識も薬もなく、苦しみました。下痢が続き、糊状のものが出て、あとはもう何もない筈なのに腹が絞る、とても苦しい。まいりました。やっと起きて、公けの診療所に相談したら、医師補のアンボン人がバイエルの薬をくれました。見たら木炭を錠剤にしたものです。でもこれを飲んだら下痢が止まり、次第に良くなりました。
脚気・転地療養
敗戦近くなって、脚気の症状が出て、チャンバのパッサングラハンで療養しました。毎日野菜スープとカッチャン・イジュー(青豆)を食べ続けた覚えがあります。1月足らずの滞在だったでしょうか。その頃チャンバから山の尾根沿いに、東のシンジャイに結ぶ道路工事が数百人の労務者を動員して行われていました。戦略用の道路だったのでしょう。
マロスからの便り
センカン・スングミナサからは、再三長い便りが国に届いているのですが、マロスからは葉書2通、封緘葉書1通だけです。多分途中で船が沈められ、出しても届かなくなっていたのでしょう。 その内の一通からの抜粋
「先便にも書きましたが、現在別な田舎に来ています。ここの田植え時期に、いろいろ観察できました。苗が長すぎると頭を切り揃えることがあります。勿論植える寸法は目加減です。でもなかなか上手で、筋は大体揃っています。除草をしているように見えないけれど、不思議と草は少ないです。稲の成長が早いのと株間が狭いせいかもしれません。
収穫は小さな刃物で穂先だけ摘み取ります。ポトンパディと言います。1人1日4分の1反くらい。脱穀は竹の棒で搗き、精米にするのには、更に堅木の棒で搗いて行います。収量は良い処で3,5俵(玄米)手入れしないわりには良く取れています。
昨日父上の1月11日付けの手紙を受取りました。お尋ねの正月料理は「雑煮」だけ、でもこれには餅、かまぼこ、菜、だしは鰹ぶしでした。その他に内地から送られた真心の清酒、ビールもあります。ご安心下さい。22歳になりました。 節句の夜に(多分44年5月のことでしょう)」
パテケ - 中馬(長野県)段付馬(北海道)-
毎夜遅くまで起きる生活が続いていました。普段は物音一つしない静かな処でしたが、時々鈴の音が聞こえる夜がありました。おびただしい数の音です。「あれは何の音・・」翌朝聞いたら「パテケです。たばこ、椰子の実など山奥の物産を、何十頭もの馬の背に振り分け荷物にし、涼しい夜の内に列になって運んで来ます。一頭一頭に鈴が付いていてそれが
響くのです」。
街の東側チャンバ街道入口の市場近くに馬逹がいました。そこには馬方相手の宿、食堂などもありました。幹道はおおむね整備されているけれど、その先は一歩入ると人の歩く道しかないので、奥地で取れた物産は馬の背で市場に持って来なければならなかったのです。昼歩くと車の往来はあり馬が騒ぐ危険もあるし、暑くて馬も疲れるので専ら夜の通行になったのでしょう。
それで思い出しました。私の街も、開拓初期道路が不完全で、鉄道支線のなかった頃、奥地の農産物は皆馬の背に載せ、それを何頭もつない往来したそうです。段付け馬と言いました。街の入口に雑穀商、飲食店、宿屋などが軒を並べていました。今もなごりがあります。マロスと同じです。本州では奥地に塩を送るのに馬や牛が使われれ、これを「中馬・ちゅうま」と言ったようです。
ミニャ・クラパ・椰子油
日常家庭で使われた油は殆ど椰子油でした。灯火、料理用だけでなく、田舎で女性は髪油としてもつかいました。椰子油は少し古くなると酸化し独特の匂いがしてきます。帰国後椰子油が配給されたことがあります。久し振りの椰子油の匂い、強烈にセレベスへの郷愁を感じたものでした。
飛ぶにわとり
セレベスのにわとりは大変元気がよく、かごの中の闘鶏は別として、普通はほとんど放し飼いでした。あれでよくよそに行かないものだと思いました。車で走っている時、並行して飛ぶのもいました。相当の速さでした。味が良かったのはあの十分の運動のせいでしょう。
バンテムルンの滝
マロスの名所と言うと「バンテムルン」ですが、当時は全く自然そのまま、訪れる人もまばら淋しい処で、私も2、3度くらいしか行ったことはありません。もちろん珍しい蝶の捕れる名所だなんて誰も言ってくれる人はいませんでした。
私の兵役
1945年6月、満22歳になりました。8月1日召集、即日スングミナサ郊外森の中の、竹の柱と壁に椰子の葉(ニッパ)の屋根の兵舎に入リました。 真中に通路の土間があり、両側に高さ50cm程の竹の床、いわゆる飯場様式の小屋です。リックサックには自分の使う毛布、敷布、私服(白い背広)インドネシア服(ソンコ・サロン)Yシャツ、洗面用具、たばこなど、持てるだけ持って行きました。毛布(寝具)を持参せよと言う指示です。この頃は軍隊も兵士の寝具の用意ができなかったのです。貰った服はぺらぺらな生地の海軍陸戦隊式の兵服、襟に赤い星一つ(2等兵)帽子
には錨が付いていました。班長は陸軍下士官、小隊長は海軍と陸軍の士官、下士官、陸海混成なのです。兵舎、用具、食事は海軍が一応用意したが、海軍には民間人を召集する権限がなく、士官、下士官が少ないので ハルマヘラ、モロタイから撤退(敗退)してきた陸軍の権限を借り、私達民間人を根刮ぎマカッサル防衛に駆り立てることにした・・そんな兵隊でした。
マロスで知り合った台湾拓殖会社の若い台湾人(嘉義農林出身)社員も1人同じ班員でした。同年で一番若かったので一番親しくなりました。分隊長は私の属する南興社系列マカッサル水産の漁船船長で兵長、30代後半の人です。そのよしみか私を班の事務係に指名してくれました。私と翁君の外は、皆3、40代、前職は土工、大工、左官職などの人です。ほ伏前進、手りゅう弾投てきなど、入隊翌日から訓練は始まりました。若い翁君や私には造作も無い訓練でしたけれど、年配の人逹にはとても辛らかったようでした。
敗戦
敗戦のニュースは15日は何故か何も知らずに過ごし、16日朝になって、中隊長の当番兵がひそかに「戦争は負けたぞ。昼頃知らせるらしい」と伝えてくれました。先に聞いたせいか「戦争は負けた・・」聞かされても、全く感動がなく「あぁ、戦争って止められるものだったんだ」それが一番強く心にずんときた思いでした。考えて見たら、私が小学校2年1931年に満州(中国・東北)事変が始まり、以
来15年間戦争の中で成長、成人になりました。そんな戦いに終わりがあるなんて、とても考えが及ばないまま過ごして来たのです。
幸か不幸か、マロスは電気が無いのでラジオも聞けず、新聞もニュース統制で、戦争の惨禍を殆ど触れずに過ごしていました。セレベス島背後、石油基地タラカン島が4月、バリックパパンが7月既に攻略され、前も後ろもみんな全部囲まれていたなんて、全く知らなかったから、お仕舞いま
でのほほんとしていられたのでしょう。昼夜問わず続いた爆撃はぴたりと止みました。
8月セレベスは乾期の最中、良い天気が続きます。何日かして青く晴れた空に、緑十字の飛行機が我が者顔に兵舎の頭上すれすれに何度となく飛び回りました。 豪州か、モロタイからからの連絡機のようです。「戦争は終わった。平和が本当に来た・・・」実感が湧いて来ました。
バクチ場
9月に入って急檄に兵舎の規律が弛み出しました。私達の兵舎は何故か「賭場」と化しました。どこからか真新しいトランプが持ち込まれ、毎夜「オイチョウカブ」が開帖されたのです。見ていると、不思議なことに体格が良く、やたらに勝負の強い男が現われ、瞬く間に金をかき集め胴元となり、君臨しだしました。大分後になって手品のようにトランプを自由に扱えるイカサマ師がいると聞きました。その時は世の中には賭博の才能「ばくさい」のある人間っているんだと感心して見てました。自分にはそんな才能はなさそう、こんなのを相手に勝負したって絶対に勝てるわけがない、賭博経験無しに終わりました。そして軍隊と違う秩序が生まれようとしていたのです。
脱出
「こんな処に長くはいられない・・」以前マロスに米を運びに来て顔見知りだった海軍下士官に会社への伝言を頼みました。「会社の整理に必要だから、永江を除隊させてくれと言って欲しい」伝言を頼みました。それが届いて9月中旬外、下士官の車でマカッサル支店に戻りました。こんなことで、私には多分兵籍は残ってないはずです。同じ頃、台湾出身の翁君は同時に入隊した仲間と盛んに連絡を取り合っていたようでしたが、何時の間にか姿が見え無くなっていました。「あぁ、やっぱり彼は外国人だった・・」
逃避行
マカッサルも騒然としていて長くいられません。マロスに戻ったら、米集荷トップの私への雲行きは相当悪いらしい。「長く居ては拙い」その夜の内に北方行きトラックに便乗、百数十キロ離れたパレパレに移り、次いで以前にいたワタンソッペンまで避難しました。
終戦時南興社・社員配置
マカッサル本部
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20名
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マカッサル管下・マロス出張所
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坂田・永江・坂
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マカッサル管下・パンカジェネ出張所
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1名
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ゴア分店 ・スングミナサ出張所
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2名
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ゴア分店 ・タカラル出張所
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1名
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ボンタイン分店
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1名
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ボンタイン分店・ジェネポンド出張所
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1名
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ボンタイン分店・ブルクンバ出張所
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1名
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ソッペン分店
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2名
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ソッペン分店 ・タジュンチェ出張所
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1名
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シ(セ)ンカン分店
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2名
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シ(セ)ンカン分店・ジャラン出張所
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1名
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ボネ分店
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3名
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ボネ分店・シンジャイ出張所
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2名
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ボネ分店・マニピ出張所
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2名
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パロポ分店
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1名
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パレパレ分店
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3名
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・マカレ出張所
・ランテパオ出張所
・カロシ農場
・ピンラン出張所
・ラッパン出張所
・シデンレン出張所
・タンルテドン出張所
・バル−出張所
(註、1943年トラジャ・センカン地区に、マナド方面から撤退した陸軍第2方面軍が展開していました。)
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1名
2名
1名
4名
3名
2名
1名
2名
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マリノ農場
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12名
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