セレウェス滞在記(7)

 

永江 勝朗

knagae@topaz.plala.or.jp




第12話 居留民・スリリ収容所

マリンプンからスリリヘ

 1945年(昭20)8月15日敗戦の日から少し経って、南セレベスの在留邦人は、各地に適宜集まり集団生活を始めました。私の入ったワタンソッペン宿舎もその1つです。10月に入って連合軍命により、日本人は全員1ケ所に集まって帰国を待つことになりました。指示された場所は、マリンプン砂漠でしたが、10月下旬その一部は、開設に私も参加した「南洋興発スリリ直営農場」で野菜栽培を始めることになりました。
 11月には、ここを拡張しマリンプン収容所向けの野菜供給基地とすることになり、要員とし南洋興発社員全員がスリリ農場に移りました。(最初マリンプン収容所に全員が集まったとは、小林報告・後掲を読むまで忘れておりました)11月私がスリリに行った時は、南洋興発社員全員が入られる大きな宿舎(第2寮)が既にあって、井戸・炊事場・水浴び場などが出来上がっていたし、次々入って来る人逹の宿舎も順次建てられていました。

 パレパレ方面からスリリに行くには、ピンランの街の手前から東へ間道を入ります。道は今は舗装され、トラジャから流れるサダン川から分水された、大きな潅漑溝が道路と並行して流れていますが、当時も椰子や様々な木が良く茂って、豊かな土地に見えました。見た処湿地帯で、野菜は高畝栽培だったようです。マリンプン砂漠の伏流水の道筋になっていたかも知れません。
 スリリ収容所に入ったのは、一般企業民間人と民政部、府の公務員など併せて6、7百人位だったようです。その中で内南洋興発は子会社を併せて百数十人、1番の大所帯でした。

自治制・自賄い

 スリリ農場はマリンプンの収容所本体から遠く離れていたこともあったのでしょう、1種の自治体として運営されたようです。旧陸海軍関係者の姿は見たことがありません。収容者の中心になった南洋興発社は、パレパレ、ピンラン地区を含む南セレベス全地域で米集荷と軍向けの野菜栽培をやっていましたから、各企業よりはこの地域の土地感もありました。集まった人逹も各企業の社員と公務員、ここに来るのに、それぞれが缶詰などの保存食品、酒などを持込んでいたのではないでしょうか。また収容所を仕切った幹部団も、上手に食料調達ができたのだろうと思います。後に知ったマリンプン旧軍の炊事班が行ったと言う「ピンハネ・クスネ」など、ここでは全く無く、給食は充分だったとは言えないが、まずまず普通の食生活が確保されていたと思います。

監視兵

 スリリ収容所には監視の兵隊を見た記憶は、私にはなかったのですが、オーストラリア兵がいたそうです。でもそんな程度の存在で、外界との境界の仕切りも無かったようです。ワタンソッペンの宿舎にいた時は、2,3回、カウボーイハットを斜めにかぶった品の良くないオ−ストラリア兵が「臨時検査」の名の下に、自動小銃を突き付けて掠奪し、閉口しましたが、ここに来てからは寮内に兵隊が立入いったことは、1度も聞きません。 スリリの日常に、その種の逼迫感は全くない平穏な暮らしを、完全な自治集団が機能させていました。

ご飯炊き

 私達が入所した頃、新たな炊事班が編成されました。班長は南興社の安田さん、我が社からは私と石原さんが飯炊き要員として送り出されました。志願したのたか指名されたのか覚えておりません。各団体から応分の人員が出ました。炊事班には飯焚き員と惣菜作り員があり、飯焚きには若いしろうと、惣菜作りは調理経験者が多かったようです。ご飯炊き要員は、私達の外沖縄班2人、民政府から1人か2人、興南組の1人が記憶があり、全部で10数人だったのではないでしょうか。
 飯炊きの寝床は平釜の前にずらりと並んでいました。釜の直径は1m,1釜は1度に5、60人分のご飯が炊けます。褌1本の姿で釜1つを1人が受持ち、毎度薪で炊きました。夜明け前朝5時前に作業にかかり、炊き上げたら釜を洗い次に備えます。それを1日3度繰り返すのです。慣れたら上手に炊けました。薪は係がいて運んでくていました。翌年帰還の朝まで、170回余り飯を炊いたことになります。炊事班の暮らしで作業仲間に友も出来、それなりに楽しく過ごせたのですが、折角南セレベス全土から南興社員が集まった貴重な機会だったのに、私は会社の人逹とは宿舎が隣接していたとは言え別棟でしたから、交流の機会が少なく、共通の思い出が少ないのが心残りになったいます。

マリンプン

 在「南セレベス」の日本人収容所本体は、スリリの北方12,3kmに広がるマリンプン砂漠北の一画にあり、陸海軍人と在留邦人の1部、併せて2万人が抑留されたと云われます。マリンプンに入るメインルートも、ピンランを過ぎて東に入る道だったようです。この地方の中心ピンランの周辺は一帯が平坦地で、肥沃な米作、椰子園などが拡がっているのに、マリンプン付近だけは何故か緩やかな起伏の多い砂漠状の大平原、貧弱な草が所々生えるだけの不毛の大地、民家らしい民家は全くないところでした。

陸軍の基地だった

 1948年太平洋戦争の中期、ハルマヘラ島、セレベス北部に駐留した陸軍は、アメリカ軍がニュ−ギニア東部の攻略を行い、次第に西部に侵攻するのに伴い、そこから撤退することとなり、セレベスの陸海路を通って南部に後退しましたが、その陸軍数万人が、ここマリンプンを中心にトラジャ、ワジョ地区に新たな防衛基地を展開させました。この砂漠には陸軍用の小さな飛行場も設けられたようです。

暗い過去

 しかしマリンプンは、第1次欧州大戦の際、太平洋1帯に駐留したドイツ兵捕虜の抑留所が設けられ、その与えられた生活条件が大変厳しかったので、相当数の犠牲者を出したと伝えられる曰く付きの場所でもありました。

沖縄班

 スリリに集まった沖縄出身の人逹は、1つの宿舎にまとまることになりました。南興の子会社マカッサル水産所属・糸満玉城組の漁師連中もそこに入りました。班長には広島高師出身の若い行政官がなり、きびきびと指揮を取った姿が印象に強いです。何故沖縄県人だけが1つにまとまったのか、次第に事情が分かって来ました。沖縄はアメリカの占領された後直轄軍政下に置かれ、沖縄県出身者は本土に帰っても、そこからすぐ沖縄に戻られないことが分かって、その事態に統一して対応する必要が あったのです。

碁・マージャン

 早朝に起き、大きな平鍋でご飯を炊き、鍋を洗って、食事して、それを日に3度繰り返す生活・・あいた時間は寝るか、碁を打つか。 マージャンのパイは器用な人の手で、あちらの竹を細工していく組も作られ、大変盛んに行われました。私も一応最低のルールを習ったけれど、ついに好きになれませんでした。碁の方は、ご飯炊き仲間沖縄玉城組事務係の大城さんは詰め碁の達人で、彼に徹底的にしごかれ、あちらにいた時は1級並みに腕が上ったようですが、帰国してからは続かない。私に勝負事は根っから性に合っていないと分かりました。

ゆかた

 炊事班の仲間に習い、白地の生地で浴衣を一着縫い上げたことがありました。もっとも、それ以前辺地の暮らしの中で自分のパンツを何枚も縫ったことがありました。

たばこ

 スリリでどんなタバコを飲んでいたのでしょう。紙巻きではなく多分セレベスで採れるタバコを、自分で一々紙で巻いて飲んでいたのではなかったかでしょか。酒は無ければないで済む程度でした。

お汁粉が好きになる

 そんな暮らしの中で、皆に一番人気のあったメニューは何と云っても「お汁粉」でした。私は子供の時から「甘いもの嫌い」変な子どもでした。始めは「汁粉」を横目に見て、お焦げか何かをかじっていましたが、何時の間にか人と同じように食べ出したら、美味しさも判るようになっていました。帰国以来社会生活が長くなるにつれ、弱かったお酒の手も人並みに、今は「両刀使い」と云われます。
 風呂ふき大根 ここで始めて知った味でした。賄いだけの役得料理ではなかったはずです。大根料理は好きでなかったのが、これを食べてからすっかり変わってしまいました。これをつくっている時の調理担当のおじさんの得意な顔が思い出されます。茄子の油炒め 随分食卓に上がりました。

逝った人

 マリンプンの高台に日本人埋葬地がありました。私より1、2歳年下、群馬県出身の小林賢一君が、スリリに来てから病気で亡くなりました。病床を見舞ったかどうか、病気になる前にお話した記憶もあるし、彼の優しい顔を覚えています。その埋葬に加わるのに砂漠の道を10kmをとぼとぼ歩いた覚えもあります。どちらかの手の骨を会社で持ち帰りました。南興会社マカッサル事業所で4年間の内に亡くなった人は彼1人でした。

英国史

 マロスお知り合いになった台湾拓殖の所長さんからか、後に出来た図書館からだったか、一冊の本に出会いました。「英国史」著者はアンドレ?何とかと言ったように思います。分厚い本でしたが、夢中で読みました。強い衝撃を受け、一生記憶に残る本の1つになりました。

 第1 日本が戦いに敗れたのは「アメリカの武力に敗れた」と言うより「世界の潮 流・民主主義」に敗れたのだ・・と知りました。「歴史の潮流」とには、何者も抗しがたい力が働くと分かったし、今出会おうとしている民主主義は、今まで自分が生きて来た世の中より心地良いものらしいと感じました。
 第2に、英国民主主義の始めの基盤は、第1回「選挙法改正法」は1832年に実現、1867年更に「選挙法改正法」があり、第3回目の「選挙法改正法」1885年で「小選挙区制」となりました。これは「不正選挙」が行えない仕組み確立が前提なのです。私の生まれる40年前、明治維新の少し後、これはついこの間の出来事とも言えるし、その達成までに大変な時間と犠牲があったのも分かったのです。

スリリ温泉(アイル・パナス)

 マリンプンに通ずる道を1kmほど行った道端に、温泉(アイルパナス・熱い水)がありました。私が始めてスリリに行った頃は温泉のあることは全く知らなかったし、もちろん入浴施設はありませんでした。陸軍が作ったものでしょう。屋根のかかったコンクリート作りの立派な浴槽をいくつも備えた温泉でした。炊事の仲間と連れだって何度か入りに行きました。温度は大変高温で、まともに足から入ることが出来ず、お尻から恐る恐る入ったのを覚えています。1996年50年ぶりに尋ねたら、浴槽は廃虚となって荒れ果てていました。あちら人には温泉入浴の習慣がないらしいのです。

彷徨する兵士・反戦の原点

 スリリ収容所と温泉の中間の森に、陸軍病院があり、温泉の行き帰りにそばを通りました。建物がどんな規模で、どれだけの人が入っていたか全く覚えていません。私は戦争中、爆撃で破壊され廃虚となったマカッサル市街を見た以外、幸い戦場に立ったことがありません。唯1つの例外は、敗戦直前45年5月、米軍爆撃機B29がマカッサル上空で撃墜され、マロスとパンカジェネの境界付近収穫の終った田んぼに墜落、その現場を見たことがありますが、10人近い搭乗員の死骸が、辺り一面に散乱した悲惨な光景を見ました。

 「玉砕」と聞けば綺麗ですが、現実は正視に耐えない惨たらしいものです。44年マロスに来た坂幸栄君は、ハルマヘラ島の戦火を逃れ、セレベスを陸路南下して来た人ですが、出会った戦場の様子は全く話してくれませんでした。45年5月一緒になった坂田隆三郎さんも、ニュ−ギニア・マノクワリからアンボンを経て海路逃避行中、マカッサル沖で船が沈められ、漂流、救われた人でした。でも、その時のことは坂君同様に話しませんでした。

 温泉往復の途中病院の前で、そこに彷徨(と見えた)する1人の兵士を見ました。彼の半袖と半ズボンから見えた手足は、これ以上細くなれないと思うほどがらがらに痩せ、それでいてお腹は大きくポンと膨らんでいました。飢餓、栄養失調の終末の姿だと云うのです。それでいて腰に空き缶を下げ、キョロキョロと地面を見回して歩いていました。食べられる物を探している風でした。この病院に入ったら一応の食事は出ている筈なのに・・・。

 ニューギニア島西部前線から逃れた民間人や兵士が、逃避中飢餓、マラリアでむざむざと命を失った上、残った人々のいけにえになったと言う事実を、ひそひそ話しで聞きました。この兵士の姿に無法無残な、悲しい南方戦場の姿をかいま見た思いがしました。

 「セレベス戦記(後述)」によると、マリンプン収容所内の病院にも「西部ニューギニアから、骨と皮ばかりになって移送された捕虜(兵隊)の一群がマリンプンの草原の農耕に立ち向かったとき、ここでいよいよトドメをさされるかと思ったらしい。事実彼らはバタバタと倒れていった」(原文のまま)とあります。病院で見た兵士、50年を過ぎた今もあの姿ははっきりと脳裏に焼き付いています。この記憶がある限り、どんな理由があろうとも、1切の戦争を許せない、私の反戦の原点なのです。

沖縄相撲

 唐手の名手鬼舎場朝信君と知り合いました。彼は追い込み漁業玉城組漁師の一員でマカッサルにいた頃から、勇名を轟かせた人です。 体は大きくなかったけれど筋骨隆々、足の代わりに両方の拳で体を支え、コンクリート床を軽々と歩く手練者です。でも当時沖縄の人達は、日本式相撲を知りませんでした。沖縄相撲は腰に帯を締め、あらかじめ互いにそれを握って始めます。蒙古相撲に似ています。猛者が技を知らないのに乗じ、力だけでまともに押して来るのを2、3回土俵下に、派手にうっちゃりで投げ飛ばして、大いに彼を悔しがらせました。すぐ手を覚えた彼には、もう敬遠し逃げ回るばかりです。卑怯のようだけれど、マカッサル時代彼とけんかをした相手は1週間も寝込んだと言う伝説を聞いていたからです。沖縄と本土には、当時こんな文化の違いがありました。

沖縄芸能

  所内の暮らしも少し落ち着いた頃、広場に舞台が作られ、演芸会が行われました。そこで披露され驚いたのが「沖縄の歌舞踊」でした。演技者は南興の子会社、糸満玉城組の漁師達の年寄り連です。素晴らしく美しいきらびやかな舞台衣装、楽器(三線、太鼓)がどうしてここにあるのでしょう。演じられたもの、沖縄言葉も芸能の由緒も全く分からない、始めて見るものなのに、素人の目にも本物の芸です。圧倒されました。漁師の集団にどうしてこんな芸があるのだろう。この時始めて沖縄に優れた独自の「沖縄文化」のあることを知ったのです。この時一緒に演じた本州勢に、これに匹敵する芸能が見当らなかったのです。本土の庶民にこれに匹敵するものが、何故無いのだろう考えさせられものです。この感動で、一生熱い沖縄フアンになったのです。

差別

 南方で沖縄、台湾、混血児その他の人たちに対する根強い差別が、本州出身者全体ににあることを知りました。幸い北海道生まれは差別対象ではなかったが、何故だろうと驚きました。私には全く身に付いていない感覚だったのです。もちろん北海道にも昔アイヌ人への差別がありました。幼い頃同じ年のアイヌの子と1緒に遊んだこともあります。でも私には差別の思いが身につかなかったのです。

 マカッサルの南興会社には、センカンの主任安永さんが台湾人、森(今吉)さんはミナハサ(マナド)ダブルスでした。私は森(今吉)さんには、マカッサル上陸当初インドネシア学を専ら学んだし、安永さんにはセンカン・ジャラン最初の辺地勤務で、大変なお世話になりました。差別どころではなかったのです。本州人の差別の事は知ったけれど、私には全く身に付くことなくセレベスを終えたのは幸いでした。前記のお2人はスリリ農場には参加されなかったようです。

飛び出さないか?………

 スリリ暮らしが3、4か月経った頃、ほとんど日本の事情も掴めないし、何時帰国できるか判らない、段々いらいらする気持ちが高ぶって来ていました。1番親しかった同年のG君に「ここを飛び出さないか」私が持ちかけました。私1人で出るのは自信がないが、G君はマカッサル語も堪能だし、彼と組んだら何とか現地で生きて行けそうに思ったのです。「いや、俺の実家は年とった母親1人、だからとにかく帰る」それで話は終わりでした。

 そう言った私は43年後の1989年、G君に連れられセレベスに行くまで、大人 しく北海道で暮らしました。G君は自由業だったこともあり、20年程前から何度もセレベスに行くようになら、事業をやって前後7〜8年間暮らしました。55数年前のある日、ひょっとしたら私もインドネシア永住の道を辿っていたかも知れないのだと思うと、残留者・国際結婚組には「他人でない・・・」心情が動いてしまうのです。

地獄のマリンプン収容所

 「セレベス戦記」と言う本があります。セレベス島は東ハルマヘラ、北フィリピン、西ボルネオ島、周囲が全部連合米軍に上陸され戦場となったのに、何故か無傷で残されたこの島の戦記です。陸軍軍人の立場から書いたものなので「そんなことがあったのか」これを読むまで全く何も知らなかった私には大変貴重な資料です。

 京都大学卒業・元陸軍少尉奥村明さん著、1974年4月発行されました。奥村さんはハルマヘラ島に上陸直後から遭遇した、米軍の攻撃による苛烈な戦場から奇跡的に脱出、北のマナド(メナド)でも何度も空爆を受けて後、部下30人と共に陸路2千kmを徒歩で南へ辿りつきました。敗戦の後、最終的に入った「マリンプン収容所(抑留所)の生活は地獄だった」と言います。前述のようにマリンプン収容所(抑留所)は、収容所の本体があった所で、ここの状況の一面を知ることができました。

 12月上旬の集合命令から、翌年6月15日引揚船田辺港到着までの記録です。

鬼畜米英・撃ちてし止まむ

 戦争中国内の士気を高めるために、こんな標語が張り出されたと聞きました。その反動か敗戦になったら、兵隊たちの間に「本州はもう何もかも無くなった。男は皆去勢されるし、女も強姦だ。捕虜は船に乗せられたら、途中で海に投げ込まれるだろ う」こんな会話が真面目にあったそうです。(私達の間では、そんな話題は全くありませんでした。でも前途が全く見えなかったのは同じです)

またまた行軍

 トラジャ・ランテパオ近在に駐在していた奥村さんと部下30名は、なぜかこの小隊だけ徒歩でマリンプン行きを命ぜられました。砂漠、炎熱下の草原30kmを含む200kmの道程を、1週間かけて踏破してマリンプンに到達したのです。

砂漠の農作業

 隊は陸軍病院付属の農作業に従事しました。肥料っ気の全くない砂地、連日炎天下8時間の労働が行われ、過酷そのものでした。

ピンはね・くすね

 しかし、奥村さんたちをもっと苦しめ、衰弱させたのは貧弱な給食でした。連合軍から支給される米は、1人1日310g(2合1勺)です。しかし、実際は運んで来る兵士(日本)が途中でくすね、収容所入口で連合軍の監視兵がくすね、倉庫に入ってから番兵が役得でくすね、各隊の炊事班員は自分たちが充分に食べた残りを分配する・・了いには1日1人1合5勺の粥食になりました。そして分かったことは、倉庫係はくすねた米を病院に持ち込んで薬用アルコールを入手、晩酌をやっていたことでした。役得にあずからない一般兵の多くは飢餓、栄養失調状態となり、暴動寸前の状態になっていたのは当然の成り行きです。

アンボン人軍曹

 もう一つの災難は、監視にアンボン人軍曹率いるアンボン兵がついたことでした。アンボン人軍曹はオランダ軍捕虜として日本本土に送られ、3年間貧しい給与、激しい労働、その上徹底的に日本兵看守のしごきに遭い、日本人に対する恨みは骨の髄まで達していた人だったようです。その人に、奥村さんはうっかり敬礼を怠って、すっかりマークされてしまいました。そんな折、悪いことにアンボン監視兵による宿舎の臨時点検があって、禁止されているインドネシア人部落の物々交換で得たアヒルのたまごが見つけられてしまいました。

 奥村さんは隊員6人に見せかけの、激しい制裁を加えたのですが許されず、無期重営倉(軍隊の刑務所)入りに処せられました。ここはもちもん乏しい倉外の食事よりもっと厳しい。奥村さんたちは自分貧しい食生活の中で工面して、やっと取れたちびたさつまいもを手に差し入れに通ったと言います。

帰国

 そんな困難のさなか、5月上旬「帰国が繰り上げられる」と発表があって、やっと事態は収拾されました。6月5日、奥村さんたち第5梯団3千人はパレパレを出帆、6月15日和歌山県・田辺港に帰国しました。

リンチ(私刑)

 上陸の前夜の田辺港で、凄まじい兵士たちの旧将校に対するリンチが1晩中続けられ、奥村さんも例外では無かったといいます。

引き揚げ完了

 南セレベスからの引き揚げは、次の第6梯団3千人で全部終ったとのことです。

地獄はなぜ起こったのか?

 奥村さんたちの受けた災難は、誇張ではなく確かに事実だったのでしょう。でも「セレベス戦記」を良く読むと、奥村小隊の苦難の元は乏しい給食にあり、それは身内の不当な食料ピンハネが直接原因と言うことが分かります。マリンプンには奥村小隊の外に、2万人の軍人民間人がいましたが、その全部が地獄の憂き目に会っていたのでしょうか。

 スリリも基本的米の配給量は差がなかったはず・・でもスリリは天国とは言えないまでも、地獄ではなかったと思うのです。地獄と天国の差はどうして? 非常に困難な状況下で・・「スリリでは民間人の合理主義、民主主義、富力、指導者の英知が働いた」のに対し、奥村さんのいた「軍隊には、人間の英知を奪う軍隊の持つ硬直した悪い縦割り組織、伝統、弊害がまともにかぶっていた」そうではないかと思うのです。

物々交換

 抑留生活も終わりになる頃、スリリでは夕方になると道路と反対、森の境界の「仕切り」越しに、人が集まる場所が出来ました。物々交換場です。現地妻や子どもとの面会もありました。外の情報も色々入っていたようです。物交で私は「アラビヤ文字の小さな金貨・ダンロップ製ごついゴム長靴・連合軍流れの缶入りタバコ、食品の缶詰」を手に入れました。こちらからはセレベスのサロン、金の指輪を出したように思います。

帰国準備

 私達の帰国準備は、4月下旬か5月上旬から始まったようです。 乗船の際に荷物検査がある、貴金属は持って行かれない、港まで大分歩かねばならないことも予告されました。所内は荷物整理で慌ただしい空気に包まれました。私は金貨は手製のブリキの水筒の内側に貼付て貰い、長靴と碁盤碁石、椰子の実を茄子の形にしたタバコ入れを用意しました。トランクはどこかで仕入れた皮製、欲張った荷物は随分重いものになりました。

帰国港パレパレ

 乗船地パレパレ港(マカッサルから北に155キロ)は、南スラウェシ2番目の港湾、波止場近くに南洋興発会社のきれいな事務所があって何度も泊まったこともありますが、44年爆撃で街全体が壊滅させられ、姿はすっかり変わったとのことです。早朝暗い中荷物を背に何kmか歩き、少し明るくなって「このままじゃあ、パレパレまでは体が持たないな・・」心細くなっていたら、トラックが並んでいて、パレパレまでピストン輸送となって、仮収容所に入りました。(註・この日の内に埠頭に行ったとばかり記憶していたら、一旦仮収容所に入り、2週間近くも待機させられたようです)

いよいよ出港 46,5、6

 埠頭の先に広がる湾は、以前に見たことのある緑の密林を抱いた島が広がり、穏やかで美しい光景がありました。埠頭ではオランダ将校の荷物検査を受けました。大勢なので時間はかかったものの、私は何事もなく通過しました。私達民間人は南セレベスから最初の引き揚げ船だったようです。午後乗船、その日の夕方に出帆しました。

『さよならの歌』
サヨナラ サヨナラ
淋しく なつかしい言葉 サヨナラ
何度となく 使ってきた言葉
ある時に泣き また 笑ってさけんだ
数多い想いを含めた言葉 小夜奈良 さよなら
今から 三年前 南セレベスの小港
パレパレ湾に浮かんだ 引揚船
アメリカの リバティ型貨物船
赤く錆びた手摺りに 私達が寄りかかった時だった
船首に鳴る ドラの音を聞き乍ら
西の海へ 赤々と輝いて
つるべ落しに落ちる夕陽を満身に浴びつつ
ぼんやりと 暮れて行く丘を望み
出帆を 呆然と 待っていた
その時だった
暗くなった街から 飛び出して来た人影
見る見る 船が少し離れた 埠頭に集まった
サロン一つの黒い子供たち
私達めがけて サヨナラ!! と叫んだ
その言葉 その声は この土地に四年の別れの悲しみを
胸一杯にしていた 私達を ガク然とさせた
数少ない 日本のコトバ 今 そう叫んで
送ってくれようとは 夢にも思わなかった
私の胸は 急に熱く潤んできた
サヨナラ 濡れて答えた アリガトウ 大きく叫んだ
昨年の敗戦から 絶望と 前途への不安に包まれ
心まで 垢だらけになっていた 私達
ぐっとこみあげてくるものがあった
舷にも 埠頭にも 人はますます増えてきた
声はいよいよ大きくなった
幼子を抱いた女性もいた 南妻の一人だったかもしれない
夕闇の迫った海の別離は 声の届く限り続けられた
サヨーナラ アリガトー
総て 溢れる思い出を 振り切るように
船は 次第に 次第に 船足を早めていた

 (註)これを書いたのは1949年冬のことです。まだ帰国の記憶がしっかりしていました。情景は実際のことです。古いノートにありました。 このメモを書き付けたお陰で、名画のワンシーンを見るように今も心に鮮明に想い出されるのです。

 思い出の歌(インドネシア歌謡)

サヨナラ サヨナラ サンパイ カタム(ブルジュンパ)ラギ」(サヨナラ また会う時まで)

 この歌を何時どこで覚えたか全く記憶がありません。でもこの歌を口ずさむと必ず「パレパレ出帆の夜」が思い浮かびます。サヨナラはもちろん日本語、インドネシアに行った先々で「この歌を知っている?」「知ってる!知ってる!」歌って応えてくれました。今も生き続づいている歌です。

インドネシア歌謡・トランブラン

 バリの空港売店で求めたインドネシア歌謡のCD・カセットがいくつもあり、今でも聞きおぼえのある歌があります。「私のインドネシアも満更じゃない」ニヤリとします。今歌えるのは「ブンガワン・ソロ」「トランブラン」「サプタンガン」「ノナマニスシャパヤンプリャ」とあと1つ位です。インドネシア国歌になった「インドネシア・ラヤ」のメロディも覚えています。上陸後最初に覚えた「トランブラン」がCDにないのが寂しかった。あの名曲がなぜ伝承されていないのか不思議です。

船の中で

 船の寝床は、船底のスクリュウを回す車軸のそばが割りつけられました。帰る喜びでがらごろ回る音も気にならずに寝れました。船は途中1度も陸を見ることなく、大海原を嵐にも会わず真っ直ぐに走ったようです。

上り口説 (ヌブイクドゥチ)

 炊事班仲間大城昌英さんから、はなむけに沖縄で一番知られている古い島歌「上り口説」を教えて貰いました。大城さんは私の囲碁を手解きしてくれた、詰碁の達人でした。彼の書いてくれた「上り口説」は無くなっていたけれど、1番の歌詞とメロディは長く覚えていました。歌を口ずさむ度に収容所、友、知人1人1人が思い浮かびました。引揚げた沖縄県人は、福岡市の収容施設に入ったと聞きましたが、その後は誰とも連絡は途絶えたきりです。何年か前にNHKで沖縄歌舞踊が放映、中に「上り口説」がありました。歌詞、メロディは記憶のまま、無性に懐かしかった。 驚いたのはその時の解説、沖縄の「上り」には中国・北京への旅もあったと言うのです。上りは京都か江戸だけと思っていましたのに・・・。

 最近沖縄民謡テープを入手「上り口説」全文が分かり、遠い記憶を呼び起こしまし た。終りに桜島も読み込まれ、確かに本土上りの歌でした。でもこの歌は沖縄が薩摩の武力に支配されてから、ヤマトンチュー向けに作られた歌詞ではなかったかと思いました。それは余りにも大和言葉に近く、字で読めば全部意味が判るからです。

『旅の出で立ち 観音堂 千手観音 伏し拝み(うがで)
黄金 杓取て 立ち別る
袖にふる露 押し払い 大道松原 歩み行く
行きば 八幡崇元寺
美栄地高橋 打ち渡たてぃ 袖ゆ道にてぃ 諸人ぬ
行くむ 帰るぬ 中ぬ橋
沖ぬ側までぃ 親子兄弟 連りてぃ 別ゆる 旅衣
袖とぅ袖とぅに 露涙
船ぬ艪綱 疾く解くとぅ
船子勇みてぃ 真帆(まふ)引きば
風や 真とぅむに 午未(んまひつぃじ)
またん巡り逢う 御縁とぅてぃ
招く扇や 三重城(みいぐしく)残波岬ん 後に見てぃ
伊平屋渡 立つ波押しすいてぃ 道ぬ島々 見渡しば
七島 渡中ん 灘安く
燃ゆる煙や 硫黄ケ島
佐田ぬ岬ん 走り並でぃエィ
ありに見ゆるは御開聞 富士に見まごう 桜島』

正岡子規

 マロスで知り合った人の中に「理論右翼」青年がいました。帰国船の船ばたで、彼は「これから日本をもっと深く知るために、迷ったら正岡子規を読みなさい」と諭しました。でも不肖の弟子は、ついに今まで一度もそれに接することなしに終わりそうです。

紀伊半島・山の緑が綺麗だった

 セレベスを経って、航海10日目に本州が見えました。晴天、紀伊半島です。沖合なので街は見えませんが、海の上に出た山の緑の鮮やかさ、美しさ、私には初めて見たのに、無性に懐かしさが込み上げ、船ばたに長いこと立ちつくしていました。

名古屋村の畑

 昭和21年(1946年)5月23日、セレベスからアメリカ軍リバティ型貨物船を使った引揚げ船で私達は名古屋港に着きました。 岸壁に残った飛行機格納庫のように大きな、確か三菱重工の倉庫で行われた帰国手続きは、まず盛大にDDTを頭からかけられることから始まりました。引き揚げ証明書(私のナンバー・ト5071号)引き揚げ先、経路指定無し、日時期限制限無しの無料鉄道乗車券、それにお金が6、7百円が渡され、それで総ての手続きは終了です。持ち帰った毛布はただ1枚、1夜犬の子のように丸くなって寝ました。ここでの1日は給食を受けたのでしょうが覚えていません。 翌朝は暗い中汽車に乗せられました。一応は客車です。
 名古屋駅までは徐行、夜が明けてあたりが見えて来ました。小さな家が所々に建 ち、そこから朝餉の煙りが立ち登り、遠くはもやっていました。地面を見ると畑のようにうねを切ってあり、何が蒔いているらしく、ぼつぼつ緑色の葉が見えました。もっと良く見たら、垣根の跡の仕切りもあります。分かりました。そこは住宅の焼け跡で、それが一面畑に変わっていたのです。通る人も見えません。こんな景色は名古屋駅まで続きました。名古屋はすっかり村に戻っていたのです。
 名古屋で乗り換えたのかどうか、東京までの1昼夜は乗り替えなしでした。静岡辺 りで夜になったようです。途中大きな駅の辺りは、どの街もどの街もみな焼け野原が続いていました。途中何を食べて過ごしたのか記憶がありません。引き揚げ証明書の支給欄に乾パンの項目があったから、それ貰ったかも知れません。上野駅に辿り着いたのは早朝、晴天でした。

千葉市外・土気の旧家

 名古屋港で全国の戦災被害状況を調べることが出来ました。幸い北海道の故郷は全く無傷と分かったら、むくむく良からぬ考えが湧いて来ました。「家には電報を打てば安心するはず、後は少し道草食って帰っても良いだろう」千葉市郊外のG君宅に寄ることにしたのです。土気駅から1kmほど入ったG君の実家は、杉林の裏山を背に、大きな茅葺き屋根、絵に描いたような日本の旧家で、老いたお母さんもご健在でした。私は厚かましくも4年ぶりに無事帰った息子と一緒にお家に飛び込んでご厄介になったのです。2泊はしたようです。大きなお握りを4、5個頂いて帰えることになりました。

千葉駅原っぱ・リンゴの歌

 G君も新宿の親戚を訪れるので同行してくれ、千葉駅に立ちました。駅前一帯に露天の店が拡がって賑わっています。そこで初めて聞いた日本の歌が「りんごの歌」でした。

新宿は原野・防空壕が仮住まい

 G君の親戚は新宿の東側にあったようです。晴天でした。一面の原っぱの中に広い道路が走っていました。左の新宿駅方向には焼けビルの一群が見え、右側はどこまでもどこまで原野が見渡せました。道端の所々に盛り上がった処があり、そこは元の防空壕で東京人の住まい、親戚もその1つに住んでいました。

富士山・諏訪

 午後中央線に乗り込みました。帰郷の前に富士山が見たかったのです。甲府を過ぎ西日に映える富士山がくっきりと見ることができました。思っていた通り素晴らしい大きな姿でした。松本まで行きたかったけれど終点は諏訪、宿に入ったけれど食事は出ない、お握り1つを大事に食べました。

日本アルプス・北上・お握りは酢えた

 翌朝長野行きに乗車、晴天でした。松本では車窓から中央アルプスが望めました。私の故郷の周囲にも羊蹄山、ニセコなど著名な山がありますが、アルプスはその山の上にびょんともう1つ山が乗っている感じ、まっ白な雪を頂く山々が連なっていました。信じられない高さ、壮大さ、驚きました。やはり寄って良かったと思いました。長野から日本海に出て、ひたすら北上しました。あの頃急行列車が復活していたのでしょうか。私の乗った列車は全部各駅停車、時間がかかりました。朝夕通学、通勤の人逹が乗り降りで辺りの人が入れ替わり、土地々の方言の変化を楽しんでいました。でも貰った大きなお握りを大切に残していましたが、秋田辺りでは少し傷んできました。目をつぶり、鼻を閉じて口に押し込みました。汽車に乗っていては全く何も買えないのです。後はわが家に着くまで、何も口できませんでした。

青函連絡船

 青森港で乗船前に、またDDTを振り掛けられました。白い粉を背中に吹き込まれると妙に寒気がしました。海上も寒かったのでしょう。4年ぶりの連絡船は、艀のように小さく頼り無いものでした、大きな船は皆沈められていたのです。 混み遭う暗い船の底にうづくまっておりました。

帰郷・戦後が始まった

 函館から故郷の倶知安までは、今でも5時間ほどかかります。5千km彼方南の国から長い旅に帰り着いた故郷、実家は街外れの段丘の縁にあり、なつかしい辺りの景色を眺めました。5月末近隣の山々には、アルプスと同様しっかりと雪が残っていました。第1印象は「寒い、寒い・・」でした。そしてセレベスは「もう1度行きたいでなく、きっと帰えって行きたい処・・」脳裏に刻み込んでいたのです。満23歳を迎える寸前、私の戦後はここから始まりました。   (完)