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マカッサルの和歌山県人

脇田清之

紀州の人達は、紀の国屋文左衛門を引き合いに出すまでもなく、太平洋沿岸各地での交易は もとより、内外地への移住も活発であった。戦前、蘭印へ渡った人も多かった。昭和15年 9月25日の大阪毎日新聞に、『蘭印で活躍する紀州人』の記事がある。和歌山県人で同社特派員、和田伝五郎氏の現地からのレポートである。これによると、和歌山県人は、蘭印全体の邦人の1割近くを占めていた。変わった商売としては、スマトラ島での渡船運航などもあった。和歌山県人は、ジャワ島ではチェリボン、スマラン、チラチャップ、ジョクジャ、ソロ、プロボリンゴ、バンジェアンギなど、たいていの都市に進出していたが、とくにセレベス島北部のメナド、南部のマカッサルは、「和歌山県人の街」として、在留邦人の間で知られていた。マカッサルの北島商店の店主、瀨古周吉氏は、和歌山市北島の出身で、出身地の北島を屋号としていた。自転車の輸入商を営むほか、自動車部を経営していた。当時、マカッサルには北島商店以外には、ハイヤーはなかったという。

太平洋戦争直前、昭和15,16年頃のマカッサルを取材した、『蘭印踏破行』(渋川環樹著)によると、「マカッサに在住する日本人は170名。自転車販売業の12軒をはじめ、貿易商10軒、 その他雑貨、写真店を営んでいる。」「町にはジャワ島でよく見る馬車は通って居なかった。 馬車の古めかしい鈴の音はなくて、自転車のけたたましいベルの音が鳴り響いていた。町の“ 足”は主としてティガ・ローダとよばれ、自転車の前にリヤカーをつけたようなものである。 いわば自転車と乳母車の混血児で、これは6年前、自転車商、瀨古周吉氏(51歳、和歌山県宇久井村出身)が考案、一時は4000台ものティガ・ローダが町を埋めるほどに氾濫していたが、自動車運転手免許と同じような厳しい許可制をとるようになって1000台に減った。しかし、このお陰で、邦人自転車商は繁盛、この町に12軒もある。そして蘭印の首都バタビアにまで進出 している。」と記されている。


(写真:土井秋太郎商店 土井氏所蔵)

ジャガタラ友の会編『ジャガタラ閑話』に記載された、昭和13-14年頃のセレベス島進出日系 企業の一覧を見ると、マカッサルでは、和歌山県出身者が圧倒的な勢力をもっていたことがわかる。朝日商店、土井秋太郎商店、土井国松商店、浜口浩一商店、岸下商店、北島商店、槙野 理髪店、岡本商店、鶴間商店、矢倉商会、矢野商店などの名前が出てくる。和歌山県の土井正治氏によると、先々代が経営していた土井秋太郎商店(写真)は、A.DOI (ア・ドイ)の看板で、自転車の輸入販売業務を行っていた。土井秋太郎商店の秋太郎氏は、病気療養のため、昭和15年10月に 帰国し、その後、店は秋太郎氏の長男、辰男氏が継いだという。


写真:昭和16年3月23日 在マカッサル大日本帝国領事館開館記念 土井氏所蔵


写真: 昭和15年(1940年)11月 皇紀2600年祝賀 マカッサル日本人会 土井氏所蔵

太平洋戦争の危機が迫るなか、大半の邦人は帰国したが、事業を守るため、マカッサルに残ら ざるを得なかった邦人も多かった。土井正治氏によると、A.DOIの関係者では、長男辰男氏と 土井国松商店の土井国松氏(秋太郎氏の弟、A・A.DOIから独立)の2名が、マカッサルに残留した。昭和16年12月8日、戦争勃発と同時に、この二人は他の邦人と共に即日蘭印官憲により 拘束され、センカン、ジャワ島東部のンガウィ(Ngawi )収容所、チラチャップを経て、豪州のラブディ(Loveday)戦時捕虜収容所へ送られた。二人は、終戦まで豪州の収容所生活を送った。1946年2月21日、メルボリンにて引揚船高榮丸に乗船、3月13日浦賀港に上陸、帰国している。しかし秋太郎氏の次男、昇氏は、開戦時点に、どこに居たのか、まったく不明であった。

『蘭印踏破行』に書かれているティガ・ローダは、現在、ベチャと呼ばれるもので、考案者は 、マカッサルの自転車商、瀨古周吉氏であったと書かれている。当時マカッサルの自転車商は 、日本のメーカーから輸入した自転車部品を、組み立て、販売していたので、ベチャへの改造は、容易であったと思われる。しかし、土井正治氏が、瀨古周吉氏の子孫にあたる人に問い合 わせたが、確証は得られなかったという。周吉氏ご本人は、「ベチャの発明」などと、大袈裟に考えていなかったのかも知れない。ところが、最近、Facebookの友人が紹介してくれた、インドネシア側の戦時中のマカッサル歴史資料 "SEJARAH KOTA MAKASSAR" の中に、日本海軍のマカッサル上陸作戦の際、土井昇氏と思われる人の活躍の様子、土井氏の店でティガ・ローダを扱っていたことが記されていた。概略以下の内容である。

「日本海軍のマカッサル上陸作戦は、1942年2月9日、市の南部の地点で始まった。数千人の規 模の部隊が、ガレソン(Galesong)北部、サンプルンガン村(Sampulungan)に上陸し、バロンボン(Barombong)、スングミナサへと進攻した。バロンボンでは、日本軍は、マカッサル から来た大勢の避難民に遭遇した。マカッサルの住民を危険な市街地から、南のバロンボン、北のマロスへと避難させたのは、蘭印政府の指示によるものであった。日本海軍の指揮官は、 かつてマカッサルに住んだことのあるAdoi を従えていた。Adoi はHoge Pad 通り(現在の Jl. Letjen A. Yani)にあった北島商店のオーナーであった。また、彼は Passart Strat(現在の Jl. Nusantara)に、トコ・カネコ(金子商店マカッサル支店)も所有していた。この店は、日本製のティガ・ローダ 、自動車、自転車などを販売していた。Adoi はマカッサルに駐在していたので、オランダ軍の配置を正確に把握し、蘭軍を攻撃するためのスケッチを用意していた。Adoi は、バロンボ ンで、1939年ごろ、Adoi の店で働いていた現地従業員に再会した。元従業員から、蘭軍は、すでに北方のマロス方面に移動した、などの情報を得た。」

マカッサル上陸作戦では圧倒的な軍事力の差があり、日本海軍は、上陸の翌日、2月10日には、マカッサル市街地を完全に制圧している。本稿では戦闘の詳細は省略する。この現地側資料には、民間人Adoi という人物が出て来る。土井正治氏によると、土井昇氏は、戦時中、マカッサルで、 ア・ドイ と呼ばれていたということを、マカッサル在勤中、昇氏と同じ職場だった矢野弘明氏( 故人)から聞いている。現地側資料にある Adoi が土井昇氏であることは、間違いないと思われる。土井昇氏は、戦時中、海軍の通訳を務めたが、このため、戦後、昭和 22年(1947年)10月30日にマカッサルで刑死されている。通訳は上官の命令を現地人に伝える立場にあり、軍事裁判では厳しい責任を取らされたようだ。BC級戦犯問題に詳しい加藤裕氏から、「BC級戦犯和蘭裁判資料(茶園義男編解説)で、土井昇氏の起訴理由概要を調べたところ、“原住民を不法に大量検挙拷問組織的テロを為したり”とあるだけで、具体的な記述はないので、復讐裁判ですね。」のご教示頂いた。

現地側資料には、Adoiは、北島商店、トコ・カネコの所有者と書かれているが、あちこちの邦人の店に出入りする土井昇氏を見て、現地人からは、そう見えたのかもしれない。A.DOI の店か定かでないが、邦人の店が、ティガ・ローダを販売していたことも確かなようだ。

前述の『蘭印で活躍する紀州人』の記事の中に、マカッサルの日本人墓地のことにも触れられている。「マカッサルの近郊にヨーロッパ人墓地がある。その域内の一部に日本人墓碑が並んでいる。此処の墓地は、スマトラのメダン市にある日本人の墓地同様、美しく清掃せられ、無縁墓までも整然と祀られ、在留邦人の勢力のほどが察せられるだけでもうれしいが、私のメモに記されている県人の墓碑銘は、東牟婁郡宇久井村長田喜太郎、同村土井清、おさの、串本町矢野弘子、明神村佐々木林治、同村崎富蔵の人々である。」ここにも土井家の方の名前があり、土井家が、永くマカッサルに根付いていたことの証でもある。この墓地の所在について、いろいろなマカッサルとの交流の場で、現地の方に尋ねているが、いまだに手掛かりがない。


(写真 土井氏所蔵 :1931年(昭和6年)頃に撮影された、マカッサルの日本人の葬儀の風景)

参考資料

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