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バンドン会議特派員時代の想い出

Kenang-kenangan masa korespoden "Bandung Conference"

黒崎 久 Kurosaki Hisashi

太平洋戦争の終戦から十年目の昭和30年(1955年) 4月18日から24日まで、インドネシアのジャワ島西部のバンドンで植民主義反対、民族独立保障を旗印とするアジア・アフリカ会議(AA会議・バンドン会議) が開催され、わたしは4月11日付で、バンドンへ特派するという辞令を受けた。



AA会議の発端となったのは、1953年4月、セイロン(現スリランカ) のコロンボで関かれたセイロン、インド、パキタン、ビルマ(現ミャンマー)、インドネシアによる五カ国会議(通称コロンボ会議)である。席上、インドネシアのアリ・サストロアミジョヨ首相がAA会議の開催を提案したのに始まる。その背景にはアジアにおける冷戦の拡大に伴い、戦争を回避し、国際緊張を緩和することと、植民地解放のためアジア・アフリカ諸国の連帯と協力を強化する必要性があった。またAA会議は1954年6月、中国の周恩来首相とインドのネルー首相の共同声明で確認された a)領土と主権の相互尊重、b)相互不可侵、c)内政不干渉、d)平等と互恵、e)平和的共存という平和五原則を基本精神とした会議であった。招請国は前記の五カ国で、参加国は招請国5カ国に加え、アフガニスタン、カンボジヤ、中国、日本、タイ、フィリピン、北ベトナム、南ベトナム、ラオス、ネパール、イラン、イラク、ヨルダン、レバノン、サウジアラビア、シリア、トルコ、イエーメン、エジプト、エチオピア、ゴールド・コースト(ガーナ)、リベリア、リビア、スーダンの29カ国であった(写真上:AA会議開催式で演説するスカルノ大統領。うしろはハッタ副大統領と招請5ヵ国の首相)。

この会議にはインドのネルー首相、エジプトのナセル大統領、中国の周恩来首相といった国家元首クラスの大物や外務大臣、アラブ諸国からは王族も出席し、日本を除く首脳会議の観があった。日本は国会開会中であったため鳩山首相に代わり高碕達之助経済企画庁長官が首席代表として出席した。

ときのダレス米国務長官は、AA諸国代表が集まって会議を開いても、せいぜいティー・パーティの域を出まいと酷評したが、いわゆるバンドン十原則を採択して大成功をおさめ、この原則はその後におけるAA地域の植民地反対、民族独立の民衆運動の爆発的高揚を促進すると同時に、この地域聞の連帯運動を促進させる上での画期的な原則をなすに至った。一方、日本にとってはAA諸国の仲間入りを果たし、しかも参加国から国連加盟の支持を得たことは、戦後アジアの孤児から脱却する記念すべき国際会議になったといえる。

開会式場の前と式場内には参加国の国旗が高々とかかげられたが、リビアかリベリアかはまだ国旗を制定していなかったので、図柄のない緑色の旗がかかげられた。開会式の冒頭、主催国インドネシアのスカルノ大統領は、「この会議は人類史上初めての有色人種の国際会議である」と述べ、延々一時間に及ぶ開会の演説を行った。

このAA会議の影響は大きく、アフリカにおけるヨーロッパ諸国の植民地は続々と独立を達成した。歴史の必然的な流れとはいえ、AA会議に触発された結果といえなくもない。アフリカからAA会議に出席したのは6カ国であったが、いまやアフリカの独立国は51カ国に達している。



AA会議の会議場となった建物の前の通りは今ではアジア・アフリカ通りと名づけられている。わたしはこの通りを談笑しながら会議場に向かうインドのネルー首相とエジプトのナセル大統領をカメラで追ってばちりばちりとシャッターを切った。帰国後、現像してみたところ、その一枚のスナップが、ことのほかよい出来映えであった。残念なことに、当時はわたしどもには電送写真の装具がなかったので新聞にのせるわけにはいかなかった。新聞用写真はもっぱら、外国通信社に頼らざるを得なかったのである。上の写真は談笑しながら会議場に向かうインドのネルー首相(左)とエジプトのナセル大統領(右)。

ナセル大統領の印象について、日本の高碕首席代表は「あれはたいへんな男だ」と語った。夕食会で同席したところ、ナセル大統領は、スープはずるずると音をたてて吸うは、食物はむしゃくしゃとこれも音をたてて食うはで、西洋流の食事マナーなど一切気にせずにふるまったという。この談話からも、ナセル大統領の豪胆さがうかがい知れた。

ネルー首相が一人娘のインディラ・ガンジー(後のインド首相)を秘書として伴い、バンドン飛行場に着いたのを迎えることはできたが、もう一人の大物である中国の周思来首相やアフリカの輝ける星と称されたガーナのエンクルマ首相を間近に見ることができなかったのは残念であった。

本社に記事を送るにはローマ字電文を電報局に持って行くか、急ぎの記事は電話に頼ったが、当時の国際電話は雑音がまじって十分意をつくせないもどかしさがあった。

以下に記録として「バンドン十原則」の骨子を列挙すると次のとおりである。 a)基本的人権および国連憲章の尊重、b)国家主権および領土保全の尊重、c)人権の平等および国家の平等の承認、d)内政不干渉、e)国連憲章に基づく個別的、集団的自衛権の尊重、f)大国の特殊利益に役立たせるための集団的防衛取極めの防止および他国に対する圧力行為の回避、g)侵略行為、脅威その他実力行使の抑制、h)国際紛争の平和的手段による解決、i)相互利益および協力の促進、j)正義と国際義務の尊重。

AA会議に特派されたのを機に、わたしは何はさておき、まっさきにかつてのプワルタ・セレベスの事実上の編集長であったマナイ・ソフィアン氏を国会議事堂に訪れ、十年ぶりに再会を果たすことができて目に涙するほど感動した。前にも書いたとおり、わたしのプワルタ・セレベス記者としての仕事はマナイ・ソフィアンとともに始まり、彼とともに終わった因縁浅からぬ仲だったからである。彼は当時すでに与党であるインドネシア国民党の幹事長をつとめていた。彼は自らが主宰するスル・インドネシア紙(インドネシアのたいまつ)の事務所などを案内してくれるなど、手厚くもてなしてくれた。

一方、プワルタ・セレベスの記事の検閲者であった藤田勝氏が出迎えてくれたのには驚いた。藤田氏は野村貿易のジャカルタ支店長として赴任していたのである。わたしは藤田氏の案内で北セレベスのゴロンタロ出身で、プワルタ・セレベスでマナイ・ソフィアン編集長の有力な協力者であったハジャラティとハムザの両氏に引き合わされて再会を喜び合った。両氏を両側にし、わたしが真ん中に座った三人の写真を藤田氏にとってもらった。わたしは、この写真を今でも机の前の壁に飾り、当時を偲んでいる。残念なことに藤田氏もこの両人もすでにこの世の人ではなくなってしまった。

バンドンで宿舎に当てられたホテルに滞在中、外に出ると子供たちに囲まれて、サインするようせがまれた。初めての国際会議で、その取材に来ていた特派員たちは、それと分かるバッジを付けていたので、子供たちは珍しがってわれわれ特派員たちにサインを求めたのであろう。わたしがサインを求められたのは後にも先にもこの時かぎりであった。

AA会議当時、ジャカルタに進出していた企業は数えるほどもなかった。インドネシアとの平和条約もまだ結ばれておらず、わずかに外務省の代表部が置かれているに過ぎなかった。会議終了後、後に駐米大使となった朝海浩一郎氏がわれわれ日本人特派員団を私邸に招待して労をねぎらつてくれたのはありがたかった。 われわれがジャカルタに着いたとき、何かと手配をしてくれたのも代表部の人たちで、その中には外語馬来部昭和30年卒の永井重信君がいて、あなたの後輩ですと言われたのには嬉しいやら、びっくりするやらであった。永井君は後にインドネシア駐在公使を長年つとめ、「インドネシア現代政治史」という名著をものした。のちに石油王国ブルネイ駐在大使に任ぜられた。

注:著者のご了解を頂き「八十年を顧みて」(平成13年10月25日発行)の一部をそのまま転載させて頂きました。(編集部)

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